右足を踏み込めば 第30話「正しいことをもう一度」
周りが見えないままでの進行を迷走という
第30話――Re:Right.
人間という生き物は、持続的、あるいは超瞬間的に強烈なストレスに襲われると、大量の発汗作用が働く。
そしてその発汗される水分の中には、人間が必要とされる様々な物質も混ざっており、体外へ出される仕組みとなっている。
その物質の一部が、メラニン。人の髪の色を色づける物質だ。
日本人は大抵がユーメラニンというメラニンを生まれつき持っている場合が多く、そしてこのユーメラニンが日本人特有の黒髪の色を作り出している。ちなみにフェオメラニンというものもあり、こちらは金髪や黄褐色の髪色をしている人が持つメラニンである。まれに生まれつき白髪になっている人もいるが、これは遺伝か、あるいは先天性白髪症、尋常性白斑症になっており、メラニンが不足、あるいは体内で構成されることができない人に限ることになっている。
誰もが知っていることだが、毛髪とストレスの関係は想像以上に深い。人間は短時間で強いストレスを感じると激しく発汗する。冷や汗というものがこれに該当するだろうか。
そしてその体外に出される汗の成分には多量のメラニンが含まれている。故にストレスを感じる=毛髪の色を形成するメラニンが抜けていく=髪の色が抜けていく、という式が出来上がり、ストレスを感じると毛髪の色が抜けていくという事実がある。
おそらくそれを知っていたのだろう。薙多は森岡に言い放った。お前、替われよと。
短時間のストレスでメラニンを多量に発汗するといっても、通常それは髪の色を変えるまでには至らない。せいぜいそれが長時間続くことによって髪が脱色していく、といったところだ。このことが業界、そして世間では常識、通論だ。30分もしないで髪の色が抜けているなど、理容店にでも言って脱色を自ら行わない限りありえない。
だが、論にはそれを覆すための逆説が必ずあるもの。常識ではありえないことも。実際事が起きれそれはありえる事になるから、議論があるのだ。
徹夜した建築士は、たった少しの睡眠を取ったあとには白髪になった、という。とあるゴルフの大会での優勝のかかったトーナメント終盤、ボールをカップに入れることに集中しすぎたゴルファーは、たった1時間やそこらで白髪になっていた、という。
このような通説を覆す逆説も実際にあるので、学会の述べるような論文も一概に受け止めてはいけない。いまだ人間の毛髪に関する様々な事柄は確実かつ完全には証明されていないのが現状だ。こういう事実もあるので、やはり常識というのには裏がありすぎる。
信じられない、という人は多いだろう。そんなこと話だけで、たった数十分やそこらで、ストレスが原因で人間の髪の色が変わるハズがない、のだと。
だが目の前、薙多の前に立つ森岡は、事実、髪の色が変わっていた。
今まで、細かく言えばこの回が始まる前、マスクをかぶる前までは確かに黒髪だった。一見すれば女性の髪かと見間違えるようなまでに深い黒、蒼黒な髪をしていた。しかしそのマスクを剥がせばどうだ。見る者を魅了した黒かった髪、しかし今は、生々しく、痛々しく、そして苦々しいまでの茶色と化している。簡単な脱色、というべきか。だが本来の手順を踏まずにして行った脱色に、艶やかさなどない。あるのは、大胆な筆使いで書いた油絵のような色をした茶髪。
疲れ切った顔立ち、そしてこの茶髪と、これが森岡だと分かっていなければ、会った瞬間は誰だか分からないだろう。
マウンドにいる誰もが、一瞬はこれが本当に森岡なのか? と目を疑ったほどだ、直に立ち会って話したこともない人間が見れば、別人だと思ってしまうに違いない。そして、その森岡らしき森岡の前に立って、薙多はベンチに下がれ、と言った。理由は全員が一瞬で察した。
なぜ森岡の髪が変色してるのか、なんでここまで酷い表情をしているのか、それだけ見れば、薙多がこう言った理由など、察せないはずがない。
「おまえ、ここまで考えて、考えて、考えて、どうやったら抑えるか頑張って頭回転させて、んで辛くて、きつくて、疲れたんだろ? もう十分だから、もうベンチ下がっていいよ」
思いやる心など微塵もない、突き放す口調で薙多はそう言った。森岡はやや目を伏せ、なにも言わない。ただ口は真一文字に閉じている。
それは、言い返せないのではなく、言えないだけ。口が開かないだけ。頭が披露し切って正常に回転しないからだ。
おそらくは、いつもよりやや遅くなってからこの言葉の意味を理解したのだろう。
そうしてから、ゆっくりと当たり前のことを言い返そうと口を開く。
「まさか、ここで替われとかそんな冗談は―――」
「冗談じゃねーよ」
あっさりとはっきりと、薙多は森岡の言葉を拒んだ。
「そんな状態でまともなリードできるわけねーだろ。おまえ、ここは潔く替わっとけ。んで替わりに2年の五条でも呼んで来い。今のお前よりはずぅっとマシなリードができるハズだしな」
な―――ッ! と森岡の口は半開きになる。
今の今まで、捕手に関しての事柄で怒られたり注意されたことなど幾度となくあるが、しかしこのような暴言じみたことを言われたのは初めてだ。黎学主将としての威厳、培ってきた自信、そして実力が成り立たせるプライドが完全に崩されていくのが分かる。
砂浜に築いたお城が海水で土台から崩れていくように、音もなくそれらは薙多の言葉で崩れた。
そんな森岡の心情風景など知らず、
「ちょうどいいじゃんか、ここには監督の言伝をもらってきたメッセンジャーもいることだし、このまま森岡は交代しますーって監督に知らせてもよ。それか、なんだ、面倒ならこのまま俺がキャッチャーやろうか?笈沢ライトに入れてさ」
両手を肩の高さに上げ、大げさに肩をすくめて見せた。その様子から明らかにおちょくっているのがわかった。いくらなんでも、このまま言われっぱなしは我慢できない。頭が働かないことなど関係なしに、勝手に体は動く。
「コウジロッ!!」
ガッと、森岡の手は思いっきり薙多の胸倉を掴み上げた。
「……暴力行使反対」
「言っていいことと悪いことぐらいあるだろ!!」
「へぇ、そんくらいは判断できるんだ」
「馬鹿にしないでくれ!」
「つか、お前こんなことする奴じゃなかったよな。おりこうさんで、いつも笑顔で、みんな大好き森岡さんはどこいったよ?」
「僕のことを見下すなッ!!」
ギリリッと、胸元を掴む森岡の手から布の擦れる音が漏れる。その細く見える腕からは到底信じられない力で、森岡は薙多を力一杯持ち上げようとする、それも片腕のみで。
それにまったく抵抗しないためか、薙多の顔は徐々に苦しそうになっていく。
2人を見守るメンバーもそれを見て森岡を抑えようとするが、森岡の必死な形相と体を囲む肌を突き刺すような空気が、近づくなと、止めるんじゃないと行ってくる。
「…ッ、苦しいんだけど、離してくんない?」
口元を嫌味っぽく釣り上げただけという、いかにも頑張って作りましたと言いたげな笑顔で薙多は言うが、
「嫌だ、コウジローが謝ってくれないと嫌だ」
森岡は一向に聞き入れる気配はない。まるで子供のように、ただ謝罪を求めている。
「なんで謝んないといけないの?」
「当たり前でしょ」
「嫌だね」
「…なんで?」
言うと同時に、胸ぐらをやや上に上げる。まだ腕力に余力はあるらしい。
「…っつ、別に俺、悪ぃこと言ってねーしね」
「ふざけないで」
「だからふざけて、―――…ないっちゅーに」
「―――それじゃぁ、ごめんなさいの一言ぐらい言ってくれても…ッ!」
「だからさ、俺は・別に・お前に対して・なんの・非礼も・浴びせて・ねーじゃん?」
「それじゃ、さっきのはなんだよ! 替われとか、俺の方がまだいいとか、これが非礼じゃなきゃなんなんだよ!!」
「言ってみれば、事実の他なんでもなくね?」
それを聞くと同時に、森岡は左手に付けていたミットを勢いだけで投げ捨て、その左手も薙多の胸ぐらへやった。
もう一本の手で胸ぐらを掴まれ、さすがの薙多も作り笑いができないくらいの苦しさに襲われた。
だが、それでも減らず口は終わらない。
「…ッ、お前、やっぱ替わったほうがいいよ。こんなキレてちゃリードなんかできるハズねーもん」
「―――ッ! 誰の…せいだと思って!!」
ぐいっと力任せに薙多の体を引っ張る。うめき声を漏らしながら、薙多はされるがまま森岡のすぐ近くまで引き寄せられた。
鼻と鼻がすぐ触れるぐらいの距離。森岡は思いっきり相手の目を睨みつけた。お互いの身長はほとんど変わらないため、目線がほぼ平行になる。
「……近ぇよ、ゲイだって誤解されんぞ…ッ」
「うるさい、もうコウジローの声は聞きたくないよ」
「謝っての次ぁ黙れか、勝手すぎんぞケンジ」
「―――――ッ!!」
森岡の目で力と怒りと憎しみが一気に燃える。
森岡の怒りに満ちたその目を、薙多は怖気づくことなく受け止める。そして自身も、ウゼーんだけど、と言いたげな、下等生物を見下す目線を森岡に送った。
その異様な様子をスタンドの観客は気づいたらしく、ザワザワとにわかのことでざわめき始めた。
そして無論、これは審判も気づいているらしく、今まで我関せずの態度をとっていた主審がこちらの様子をうかがう素振りを見せ始めた。
しかし当の二人はそれに気づく様子もなく、ただ無言を通してお互い睨み合うだけだ。傍から見れば、いつ喧嘩が始まってもおかしくない状況に見える。額と額がぶつかるくらいに、鼻と鼻が触れ合うぐらいの距離で睨み合いを続けているからだろう。
「おい、いい加減止めろって…」
このままだと状況を終わらないと見限ったのか、いい加減止めさせようと江上が二人の肩を掴んだ。
そのまま力任せにぐっと引き離そうとするが、二人の距離は微動だにしなかった。薙多は見るからになにもせず、ただ掴まれているだけの状態なので、そうなると森岡の力だけが当二人を抑えていることになる。
江上も打線では5番を張っているだけにそれなりに腕力には自信があるほうだが、引き剥がそうとする二人はほとんど動くことはない。
ようやく動いた、と思っても、それは徐々に、ゆっくりのスピードで、しかもその動きもすぐ止まった。
(こいつ、この体のどこにこんな力があって……ッ!)
江上が必死にそうやっている間も、まるで引き剥がされている途中だということに気づいてないのか、両者の双鉾の先は変わらない。
「おい、いい加減にしろって!!」
江上がそう叫ぶも、二人の様子は一向に変わらない。もうじき、審判が注意しにくる頃合い。そうなれば厳重注意は免れない。そうなれば、どうなるかなんて想像できないし、したくない。
くそ、と毒づき、こうなれば無理矢理でも間に割って入って二人を引き離そうと江上が足を踏み込んだとき、
――――――パコォン!!
なんとも軽い音が鳴った。発信音はすぐ近く、というか森岡からだ。なんの音だ、と誰もが思った途端、森岡はぱっと薙多から手を離し、なにかうめき声を漏らしながら股間を押さえた。
「――――――ッッ!?!?」
いきなりのことに、状況を知らぬまま森岡は片膝をついた。その顔は驚愕と苦々しい苦痛の色が混ざっている。
え、股間…? 誰もがなぜ股間を押さえる、と疑問に思った。
なぜなら、普通股間から発せられる音は、キンとかチンとか…じゃなくて、もっとグシャッとかズンッというした生々しく重々しい音ではないだろうか。
それが、なぜにパコン?
「―――だ、誰がなにを…?」
なんとも苦しげに森岡は口を開く。目の前にいた薙多はそんな素振りも見せなかったし、周りの目も同じだ。薙多はずっと目と鼻の先にいる森岡と対峙していたのだ。
江上も体勢の都合上森岡の股間を蹴ることなんてできないし、他から二人の間に割り込もうとしてきた奴もいない。なら、犯人は必然的に後ろだ。森岡は錆びたゼンマイのようにギギギと音を出して顔だけ後ろに向けた。
――――立っていたのは、小さい影。
「……ハヤテかい…」
「おうよ」
呟くような声を出し、黒沢は意味もなく胸を張った。
「なに、なんで、こんなことしたの?」
「だってお前蹴られてもセーフティーカップつけてるかた大丈夫だろ」
あぁ、だからパコンという音がしたのか、とこの会話で一同だ納得した。ちなみにセーフティーカップとは大事なところを守ってくれる、捕手としては重宝する道具のことだ。
「いや、そういうことじゃなくて…」
森岡が言いたいのはなぜ蹴るところを股間にしたのかということではなく、なぜ蹴ったのかということだけだ。
「…ハヤテ、なんで僕のココをいきなり蹴りあげたの?」
「ウザかったし、時間勿体なかったし、審判怖かったから」
な、と全員が息をのんだ。
いくらなんでも、直線的な言葉だった。状況打開にはいい感じの発言かもしれないが、周りからすればもう少し空気を読んで発言してほしかった。
オブラートにも包まないその直球、さすがはストレートを決め球にするだけの投手ではある……じゃなくて。
あまりのストレート発言に、森岡は一瞬言葉を失うが、それでもすぐに我を取り戻す。
「それは理由にならないよ。大体、僕が怒った理由だって分かるだろう。あれだけ苦労してたのに、コウジローじゃ替われだって。冗談じゃないよね」
ほれほれ見てやれとでも言うように、手で薙多を刺した。まだあちらも態度を変える様子はないのか、さきほどと同じ仏頂面を崩していない。森岡は自分はまったく悪くないと言わんばかりの様子で、横目で薙多を窺っている。
実際、今までの様子を見ていれば確かに森岡は悪くない。ただ一方的に薙多から暴言を言われていただけだ。一番苦労しているというのに、一番この状況を打破したいといるのに、一番苦しんでいるのに、一番慰めてほしいのに、一番助けが欲しいのに、しかし一番に理解されていないのだ。
それなのに、役立たずと言われ、替わったほうがいいと蔑まれ、挙句の果て一度も捕手をやったことのない自分のほうがまだいいとまで薙多に言われたのだ。
傷心することさえ忘れ、頭が完全にキレてしまっても森岡には何の非もないに等しいのだ。
「いや、ケンジ。お前は悪い、ふつーに悪いよ」
しかし、そう思っていたのは当自身だけだったのか。その言葉は森岡のことを裏切るかのようにして耳に入ってきた。
「……なにが悪いって? まさかハヤテまでコウジロー側につくの?」
「いんや、そういうわけではねーよ」
「それじゃ、なんで?」
嘆息1つつくと、黒沢は森岡と面と向かって口を開いた。
「確かにコウジローも言いすぎだと思うけどよ。一番悪ぃーのはケンジだぜ。主将がみんなを不安にさせちまうことしてどうするよ? 状況で一番良い事をするのがお前だろ? どんな時でもそうしてきたろ? なのになんでこの状況で今みたいなことしちゃうんだよ。もっとお前らしくいろよ。お前がお前じゃない限り、この状況は悪化するだけだと思うぜ?」
その、ある種核心を突いた言葉に、森岡は言葉を失っていた。
黒沢の言葉を真摯に受け入れ、そして自分がなんたる失態を犯してしまったかを悟ったのだ。
確かに、頭が真っ白だったとはいえ、薙多の言葉に対して過剰すぎるくらいに反応してしまったのは自分らしくない。どんなに頭が混乱していたとはいえ、自分ならそれを切り替えることだってできるはずだ。だけど、そうしなかった。いや、できなかったのかもしれない。
できるはずだったことが、できなかった。矛盾ではあるが、しかしそれは正しいの本心が告げている。
分かっている。どんな状況下でも、自分は森岡健二を貫き通せる、悪く言えば、演じれる。だが、あの時だけは、我を忘れた。比喩ではなく、事実で。
「お前はお前でいればいいんだよ。だから、お前でいろ。お前が俺をリードして、お前がみんなを引っ張ってくれ。そうすればぜってー勝てるから」
ボフッと黒沢のグラブが胸を叩く。低い背からのそのタッチには、なにかしら伝わるものがあった。
それに気づいた森岡は、はっと黒沢の顔を覗いた。上からだと見えにくい、その向けられていた表情は笑顔。
それで、なんとなくだけれど、すべて分かった気がした。
―――――これが、信頼。
ただ自分でいるだけで、チームは自分を信じてくれる。そして、自分もみんなを信じれる。そうやって輪は出来ていくのだ。本当の自分でいて、自分のらしさを出していれば、それでいい。それだけで、みんなが自分と繋がってくれる。
今頃だが、それに気づいた。思えば、遅すぎた。誰と喧嘩することもなく、何かしらと反発することもなく今までいたんだから、気づくわけない。繋がりの中の綻びに気づかないなら、それが繋がってはいないということに気づくことはできないし、本当に繋がっているモノに気づくわけがない。
小さな綻び1つ1つはどこか映りの悪いテレビの回線に似ている。無数にある綻びは、全てを完璧に繋がなければいけないという。そんな作業は1人ではできない。
ならば、他の力を借りればいい。そう、例えば隣にいる同じチームの奴とか。何気ない仕草で手伝って、そう一言口にするだけで一段落つく。そしてそれを幾度も幾度も繰り返していくうちに、回線の綻びは無事に紡がれていく。
そうやってきっとチームが出来上がり、そしてその回線が繋がって、信頼が築きあがる。
今まで、そんなこと思いもしなかった。ただ、自分は自分を演じて、自分は自分のするべきことをやっていればいいと、そう思っていた。それはそれで正しいかもしれない。けど、ここではそれは正しくなかった。
薙多があんなこと言って、自分がそれに反発して、黒沢がそれを繋いで。そうやってやっとチームの回線がつながり、そしてそのまとめであるチャンネルが完成する。それはちょっとだけ遅かった。誰にも非はない、自分にも、みんなにも。自然の流れでこの過程を踏むのだから、意識していては逆に回線を繋ぐ作業に余計な支障をきたすのだ。
これはあくまで、何気ない時間を過ごす中で、無自覚無意識で行わなければいけない作業。意識してこれをできるというなら、それは最高の指揮者になれるだろう。
でも普通はできない。森岡もそうだった。いや、それ以前にやり方がわからなかった。どの手順を踏めばいいのか、それすらも分からず時間が進んでいった。手順踏まずの過程には意味がない。結局、森岡が思っていた信頼はハリボテだったのだ。
でも、今は違う。過程は踏んだし、もうすべきことはない。落し物も残し物もない。全てが整い、全てを手に入れた。もう繋ぐ回戦はない。映すチャンネルはもう残ってない。紡ぐべきものは全て紡いだ。繋ぐべきものは全部繋いだ。築くべきものは何もかも築いた。
在るべきものは森岡の手にある。本来なら余るそれを、森岡は大事に握る。ガラス細工のようなそれは、見た目以上に繊細そうで、でも暖かく、固いものだった。
自分の信じれなかったことを、他人ではない人が信じてくれて。その人が信じてた自分を、自分は信じれなくて。自分が誤ってたことを、その人は補正してくれて、助けてくれて。
今まであったようでなかったそれを、森岡は今にしてようやく手に入れた。
森岡は小さく、自嘲的に笑う。誰にもわからない、自分だけしか見えない程度の、小さい笑顔だったけれど。
でも、それはチームに向けている笑顔だ。ここで、初めて出来上がった、『自分の』チームへの感謝の笑顔だ。
ちょっと遅かったよ、ごめん。だから、せめて笑いながら謝らせてくれ。
心の中でみんなに謝罪、そしてそれに感謝を含め呟いた。
「…そうか、はは、そうだね」
「……なに変な顔してんだよ、気持ち悪い」
「そういうこと言わないの、ハヤテ」
コツン、と軽く拳を叩く。んげっと変な声が聞こえた。
「とりあえず、ごめんねコウジロー。ちょっと僕も焦ってたみたいだ」
「…まぁ、分かればいいよ。俺もあんなこと言って悪かった」
ゴメンな、と空いてる右手を垂直に立て、謝る態度を見せる。
「ま、なんにしても1回怒ってスッキリしたろ」
「まぁ、心なしには。なんでそんなこと聞くの?」
薙多はふふんと胸を張って、
「いや、人間一辺だけ思いっきりキレるとな、頭に血が昇るんだよ。んで時間がたつとそれが急激に冷えてから下にいくんだって」
「…それで?」
「それで、なんかストレスとか、そういう変な物質とかも一緒にその血液に混じって脳から出て行くんだってさ、これってトリビアになりませんか?」
「情報があまりにもアバウトだからならないよ」
軽い冗談で、ムードが明るくなる。先ほどまでは緊迫という文字を顔に張り付かせていたメンバーも、今ではなし崩し顔から取り除き、口元を緩ませていた。
と、そこで気づく。
いや、まさかね…と思いながらも、しかしそれを考えずにはいられなかった。
「……コウジロー」
「ん?」
「もしかして、それを狙って僕を怒らせたの?」
「……」
「頭が正常に働かなかった僕を、わざと怒らせて、そして頭から不純物を洗い出すために、怒らせたの?」
「……」
「確か、頭にストレスが溜まっていたから僕はさっきあんなになってたんだよね。だったら、一回怒ってスッキリすれば、理論上僕は元通り。こんなことまで計算してた?」
「…さぁね、そこはタモリさんの判断にお任せしますよ」
薙多は嫌みったらしくない程度に肩をすくめ、鼻で笑った。
「そこまで考えるほど俺は繊細じゃないよ。偶然じゃないの、偶然」
「んじゃさ、なんで僕のこと怒らせたの?」
「さぁ? 案外本音だったりしてね」
そこで薙多は背中を向け、自分のいるべき本来のポジション―――ライトへと向かって歩いていった。
そして、未だ強めの雨が降りしきる中、薙多はなんとか聞こえる程度の声を上げて、「いい表情できるようになったんだから、なんとしても抑えろよ茶髪ゥ!」と言った。
予想外の言葉に、森岡は少し吹き出しながらも、「黙ってライトに突っ立っててよね金髪!!」と、こちらははっきりと聞こえる声を出してそう言い返した。
右足を踏み込めば 第29話「誰がためにそこにいる」
存在意義を忘れた時に、ようやく存在価値を思い出す
されど、その時は遅く、誰もその勝手を待つことはなく
第29話――I‘ll be there for someone.
内原監督は打席へ向かう月舘を呼び止めた。この2死満塁で月舘という願ってもないチャンスが向かってきてくれた。できれば、いやなんとしてもここで得点しておきたい。そうすれば、以後の展開が非常に楽になる。
攻防において、守というのは攻よりもずっと辛い状況にある。銃を撃つのと銃から放たれた弾丸を手に持つ小さな盾で防ぐことのどっちが難しいかと例えたら、それがよく分かる。だが、こっちの持っている盾は非常に大きく、そして厚い。さきほどこちらが守りに専念し、されどピンチを迎えた回の攻防を見ても分かるように、こちらの持つ盾――――高宮は、たかが1発2発程度の弾丸では倒れない、崩れない。
そしてその弾丸での攻撃さえも、跳弾にして守からの攻撃に変えることさえも可能なのだ。攻撃こそ最大の防御という、戦いにおいての知られた言葉でさえも、高宮は簡単にその意味を崩す。高宮がいるからこそ、翔氏は守りにおいては絶対的な自信を持っていた。ただでさえ、鉄壁の内野陣、嶋倉を始めとした広い守備範囲を持つ外野と、守備力において弱点など皆無だ。
だからこそ、翔氏にとっての先制点は、勝ちを確信に限りなく近づけるものとなる。そして翔氏の誇る打線が、貴重な先制点を容易く手に持つことを可能にしている。圧倒的な重量打線を持っているだけでもない、固く隙のない守備陣を展開しているだけでもない。絶対的な守備力を持ち、そして試合序盤において相手構わず必ず点を取れる打線を持っている翔氏こそ、常勝軍団の名がふさわしい。
だからこそ、常勝軍団を率いる内原監督としては、このチャンスをモノにしておきたかった。あの黒沢からそうそうチャンスが作れるとは思わない。作れても、黒沢のスタミナがそこに尽きかけてくる試合後半の7回以降だろう。そしてそこからも黎学自慢の2年生笈沢が登板すれば意味がない。調子が崩れやすいといっても実力だけは黒沢とも肩を並べるのだ、油断していたらそれこそ喉元を噛み切られる。なんとしてもここで先取点を取っておきたい。
内原監督は、近づいてきた月舘を出来るだけ近くに寄せ、
「おそらくバッテリーは浮き足だってる。そこが狙い目だ。単調になるリードを見逃さず、来たボールを迷わず叩け、いいな!」
ぐっと手を握ってジェスチャーを入れると、月舘は力強く頷いた。いつもの元気な声が出ないのは、多分前の打席を凡打に近い形で終わらされたからだろう。
月舘は月舘なりに慎重になっているのだ。いつもの姿とその姿が重ならず、内原監督は思わず口が綻びそうになる。そんな月舘の背中をバシッと勢いよく叩き、内原監督は打席へ送り出した。
「よし、あのピッチャーから一発打ってこい!!」
「ウィッス!!」
グリップを思い切り握りしめる音が聞こえる。ギュッと、そしてギリギリと、音が聞こえる。握力70を超える月舘の手が自慢の黒いバットのグリップを本気で握れば、そのくらいの音は出る。
そして月舘はゆっくりと歩き出す。雨の中、打席へ向かって一歩一歩進んでいくその背中は、戦場へ向かう英雄を彷彿させる。
背中が、大きく見える。積み重ねてきた信頼が、背中を大きく見せているのか。
今だからこそ内原監督は思える、あの月舘が、いや今の月舘が凡退する姿が想像できないと。
全幅の信頼を持てる、翔氏最高の打者が、今、黒沢と対峙する。
翔氏の、まず1つ目のターニングポイントが幕を開けた。
雨の中、バックネット中央のやや3塁側スタンドに2人はいた。それぞれやや大きめの傘をさして、度々グラウンドに目を配りながら、手元のPCを操作していた。
右側のPCは断続的に無機質なタイピング音を出しながら、なにか文字を打っていることを連想させている、が、もう左片方は時々にしかクリックかなにかをする音しか聞こえない。
右のPCのカタカタとキーボードを打つ音が一旦止まっる。静かになる2人の間に、時節カタ……カタ…と不規則なリズムの音を出す。
「なぁ……」
ぽつりと、右のPCを見事なタイピングで操作していた人物が左のPCを操作、というよりはいじくっている人物に声をかけた。
「………ん〜、なに」
不規則にタッチパネルを操作しながら、その左の人物は声を出した。その声からして、いかにもだるそうだ。なにか考えるでもなく、しかしただぼーっとするでもなく、ただ何事にも無関心。そんな表情だ。
ポーカーフェイスといえば聞こえはいいが、よく見ればただPCに繋がるイヤホンから耳に流れてくる音楽に浸っているだけだ。
「おい、永次、お前さっきからなにしてんの…?」
おそるおそると、右の人物は永次(えいじ)と呼ばれた人物に、帝王実業高校野球部主将の神城永一(えいいち)は声をかけた。永一の弟である永次は、あぁ〜? といかにもな雰囲気を醸し出しつつ、耳のイヤホンを片方外す。
「なんだよイッチャン、俺ちと音楽聞いてんだけど」
「お前、今日俺らなにしにここに来てっと思ってんの?なんでこの雨の中試合観戦してっと思ってんの?」
「え〜……暇だから?」
ゴツンッ、と無言で永一は永次の頭を殴った。パーでなく、もちろんグーでだ。それなりに力を入れたため、威力も結構入っている。
「〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
「アホンダラ、暇だからっつー理由でわざわざPC持参してまで試合見に来るかよ、フツーの高校生が」
はぁ、と永一はわざとらしく大きなため息をついて、
「俺らバッテリーが福島まで来たのは、翔氏の決勝戦を拝むついでに、高宮とか翔氏打線のデータ取るためだって言ったろ」
「……あー、そだったそだった」
「お前、別にわざとらしく相槌を打って首を縦に動かす必要ねーから」
「んじゃやんね」
「やんなくてよろしい」
「……」
「とりあえず、お前はお前でやることあんだろ。さっさとページ開いて気になったこととか弱点っぽいところとか打ちにくそうなコースとか書いてけって」
うげーっと低い悲鳴を漏らし、永次は再度不満を垂れた。さっきからさっきから、というか、ここに着いてからずっと永次はこの態度だ。試合が始まってもイヤホンを耳に差して音楽に聴き入ってるは、文字を打つ素振りは微塵も見せないやら、まったくここに来た意味を自ら無くしている。
……いい加減、永一もそろそろイラッとしてくる頃合いだ。ならばとっておきの、説得材料を出すしかない。
「春を思い返せ永次」
ぴたりと、音もなく永次の表情が失せる。
「センバツ決勝で翔氏に敗戦したことはまだ許せる範疇だ。お互い五分五分の力で勝負し、わずかながらもこっちが劣っていたから負けたんだ。これはただの力負けであって、練習で足りない分を補えばいい話だ。補える分だけの練習をこなせるかが問題だがな。だが、春の関東大会1回戦で法海と戦った時の話はどう言い訳するつもりだ。確かに法海は強かった、だが自力では圧倒的にこっちが上だった。だが、負けた。スコアは5−2だったか」
そこで言葉を一旦区切り、永一が隣を横目で伺うと、永次はなんともバツの悪そうな顔をしていた。どうやらあまりにも無残な自分がマウンドで独り相撲している光景を思い出しているらしい。
確かにあれは見ていて悲しかった。永次の兄というだけでなく、帝王の主将としても、バッテリーとしても、チームメイトとしても、そしてただの自分の客観からしても、あの時の帝王実業の背番号1を背負う神城永次は無残だった。
「思い出したか、あの時のこと」
「…思い出させんなよ」
チッと、唾でも吐かん限りの大きな舌打ちを鳴らした。どうやら精神的に相当キてるらしい。まぁ相手が強豪であれ、あの時が、大会1回戦で帝王が敗れるという屈辱と、エースのプライドが傷ついた瞬間だったからこそなのだろう。思いだしたくないのも道理だ。
神城永一本人でさえ、あの日の試合のことは出来るだけ思い出したくない。帝王の主将として、恥ずべき記録を残してしまったのだから。永次だって、自分のせいで負けたという自覚があるからこそ、思い出すのを拒んでいるのだろう。きっと思い出すだけで全身に冷たい鉛の棒を埋め込んだように、体が強張ってしまうに違いない。
しかしだからといって…、
「だからっつって、この試合を観戦することをサボることは許さないぞ」
「……チッ、はいはい」
面倒くさそうに、全身を背もたれに預けて永次はグラウンドを臨んだ。それを見て、永一も目をグラウンドへ向ける。センバツの決勝にて敗れた翔氏の1番打者月舘が打席に立っていた。ぐっと構える短いバットは、色のせいかどこか重苦しい威圧感をまとっている。
そう思うのは、ただ単にそのバットで打たれただけのせいか。
いや、それは違う。たったそれだけの理由でバットだけを恐れるなんてことはない。ただ、月舘本人が怖いと思っているからこそ、その彼が持つバットさえも怖いと思ってしまうのだ。
彼に打たれた記憶は、ハッキリ言ってトラウマに近い。心の奥まで響く打球音、そして痛烈な打球を間近で見たからこそその衝撃は覚えている。こんな打者がいるとは、と。
弟であり帝王のエースである神城永次は、確かに全国屈指の投手だ。それこそ高宮とも肩を並べる。そして永次の球を受けているからこそその実力も分かる。
しかしそんな永次でさえも、そしてその永次を完璧なリードで操っても、月舘の黒きバットから逃れることはできなかった。ヒットからホームランまで、まるですでに決められた未来をなぞるようにして、月舘は打球を誰もいないところへと打球を打ちまくる。その作業は精密機械の行う生産作業となにが違おう。
その試合もそうだった。高宮と神城の投げ合いが予想され、そしてその予想は7割方正解だった。幸運なことに、怪我のおかげで決勝にも嶋倉も出ないという。嶋倉が出ないということは、翔氏は大きな戦力を1つ失ったということだ。誰もがそれで天秤は帝王に傾いた、そう思っていた。
投げ合いはいつか翔氏のほうから崩れる、そして帝王が先取点を入れ、そのまま逃げ切る。そんな予想をするのが大半だった。だがしかし、結果と予想は相反するものだということは誰も気づかなかった。
箱を開けば、結局は帝王の負け、翔氏の優勝という結果があった。
高宮の快刀乱麻で始まり、月舘の先頭打者ホームランで幕を開け、東儀のソロホームランで決着がついた。取られた点数はたった2点、しかし奪った点数は、0。その数字こそが、帝王は嶋倉を抜いた翔氏に敗れたのだと、はっきりと表していた。
夏こそ見返してやる、深紅の優勝旗は帝王が貰い受ける。その試合を機に、帝王のメンバーは心にそう誓った。
夏の甲子園こそ、この帝王が頂点に立つ。その名の通り、全国を制すのは俺たちがふさわしい。それだけの思いを胸に、春先はただひたすら練習に身を預けていた。
しかし、その矢先での春季関東大会での1回戦敗退。
相手は茨城の法海高校。弱い相手ではないが、勝てる相手だった。法海も優勝候補の一角にされていたが、その戦力は帝王には並ぶともされていない。
警戒対象も少なく、中心打者の神薙とエースの沢渡、この2人が法海の軸であり、そして崩すべき壁だった。その2人さえ押さえれば勝利は間違いない。皆が皆そう思っていたのだろう。そして同時に、自分たちなら勝てる、とも思っていた。確かにそう思っていた。
だが、待っていたのはまたしても敗北の2文字。今度こそ、それを胸に切り刻まれた。油断があったわけではない、慢心していたわけでもない。ただ今回も純粋に実力で負けたのだ。それも、警戒していた2人の手によって。
思い返せば、2人の実力は素晴らしかったとしか言いようがない。敵にこういう言葉を送るのはどうかと思うが、実際に戦い合った敵だからこそこう思えた。法海の先発沢渡の、完璧という文字を体現したかのような投球と、決め球にチェンジアップ、そして高宮がこの試合で投げてくるあの超高速シュートと肩を並べる『あの球』を使いこなし、帝王打線を潰していった。
永次にも並ぶ、驚異的としかいいようがない制球力とチェンジアップはともかく、あの変化球は凄まじかった。正直、初見では打てるとは思えないほどだった。それを駆使されれば、帝王の打線も捻るに容易はなかったのかもしれない。事実、そうされたのだし。
その沢渡にも劣らない、むしろその上をいく永次の投球も、いざランナーを出せばそれをホームに返され、とどめは神薙の一閃によってやられた。特徴がないと言えばそうだが、しかし繋ぎに徹した打線と、3番に座った中心打者神薙の打撃は、帝王のそれにも勝るものだった。
なぜ負けたのか、そんな疑問を持つことはなかった。ただ実力の差があった、それが誰よりも自分たちがわかっていたからこそ、そんな誰も答えようがない疑問を持たなかったのだ。たった2度までに渡った敗戦は、自分たちの矮小さをこれ以上もなく自覚させる結果となった。
以後、自分たちに敗北を感じさせることがないよう、ただひたすらどんな相手にも屈することがないような力を求めるようになった。帝王が床に跪く姿など、これ以上さらしたくはない。
あの時以来、帝王が敗北を記録した試合はなく、夏の東東京大会は相手になった高校全てにコールド勝ちを記録し、名に相応しい堂々たる結果を連れて甲子園出場を決めた。
翔氏の試合を見に来たのは甲子園で当たることを想定してのものだ。本選を勝ち進めば必ず翔氏とその先で当たることになる。その決定済みの事実は否応がなしに理解していた。だから今日この日、東北最南端の福島県まで片道2時間をかけて足を運んできたのだ。翔氏の試合を見るために、遥々東京からここまで来たのだ。なんの収穫もなし、というわけにはいかない。
だがその不安も杞憂であり、翔氏はこの地区予選決勝をフルメンバーで臨んできた。やはり甲子園行きを決める試合だけあって、全力を持ってこの黎学という相手を潰しにいくらしい。それでいい、と永一は思う。そうでなければ、王者の名は相応しくない。どんな弱者にも、最大の力を持ってして己の牙を喉に突き刺す、その姿は、動物に例えるならライオンの姿だ。だが、そんな百獣の王を相手にしてその牙を逆に折ってみせる意気込みがあるからこそ、偵察にきたのだ。
幸い、データはカメラを通じてPCの中で処理されている。現代技術に感謝、というところか。そして自らの眼で翔氏のプレーを見るからこそ、偵察の意義がある。遠出になった、しかしその分の価値は手にすることができた。
この夏こそ、翔氏に遅れることはない、負けることもない、優勝の2文字を持っていかれることもない。勝てる自信も持っている。神城弟、久遠、そして1年生ながらも背番号を背負っている犬河の自慢の投手陣3人を率いて、主将であり4番に座る神城兄を軸とした打線を持つ帝王実業に、死角などあるハズがない。
もう春のように実力の差で敗れることも、春季大会のように愚かさをその場にして負けることも、絶対にない。
永一に手はぎゅっと無意識に絞られる。栄光こそ、帝王に相応しい。早く、奴らと戦いたい。そして、奴らの跪く姿を目にしたい。涙する顔を脳に焼き付けたい。
――――夏が待ち遠しい
聖地で戦い合う姿を想像して、思わず口元が吊りあがる。
(悪いが、本番(なつ)は俺たちがもらう……)
胸中で語りかけたのは、一体翔氏の誰へなのだろうか。本人さえ、それはわからなかった。
そんなことを思っているうちに、何度目かの打球音が聞こえてくる。翔氏に相手、黎学には悪いが、最初から黎学が勝つとは思っていない。なにしろ、相手が悪すぎる。
黎学の名前こそ知っているし、メンバーもそこそこ耳にしている。それだけ見れば、甲子園に出場してもなんらおかしいものではないし、それこそ優勝の可能性だって持っているチームだ。だがしかし、相手自体が違う。元々その相手は高校野球レベルをはるかに凌駕している選手を擁しているのだ。
黎学もそうそうたる粒がいるらしいが、所詮は粒だ。対する翔氏はそれ以上の戦力を持っている。その差は、春時点での翔氏と帝王の差よりも歴然としている。敵う相手ではないのだ。
この満塁のピンチを切り抜けたとしても、その次、その次と翔氏は牙を持って襲いかかってくる。脆弱な盾では、それを防ぎようにあるはずがない。
もはや、崩れるのは時間の問題だった。
自分の奥歯はいつ砕かれるのか、いつの間に自分はそんな不安を持っていたのか。そう思えるほどに森岡はこの月舘との勝負中、ほとんどの時間ずっと歯を噛み締めていた。
カウント自体を追い込むのはそれほど難しいものではなかった。高速スライダーを2球続け、そして見せ球に“方天画戟”をファールにして打たせ、それで月舘を追い込むことに成功した。
しかし、この勝負自体が始まるのはそこからだった。
その時点でのカウント2−1、明らかにバッテリー優位の状況だった。相手を月舘にしてわずか3球でカウントをここまで整えることができたのは、やはり流石というべきか。ここまでもかなりの労力、最大限に脳細胞を活性化して考えこみ、リードしていたのだ。状況は二死満塁、打者は月舘、そんな状況を相手にしてリードを考えたこと自体、その精神的疲労は半端なものではない。知恵熱だけならば、かなりの数字が出ているに違いない。
だが、それだけに仕事をこなしただけあって、打者相手の状況は随分と楽にすることができた。追い込んだということで、打者へのプレッシャーを大きくしたのだ。いくら月舘であっても、多大なプレッシャーによるバッティングの影響はかなりあるに違いない。確信は持てなくとも、彼も人間である以上、それは間違いないといってもいい。
幾分か楽になった状況、そしてここで森岡は黒沢に“疾風怒濤”を要求する。両者にとって精神的負担が大きくなるこの場面、勝負を長引かせていいことなど1つもない。だからこそバッテリーが1番自信を持っている“疾風怒濤”をここで決め球として選んだのだ。
前の打席まで月舘はこれを捉えきれていない。少なくとも打たれることはないと思った。
そう思うのは、何度のファールが続いても変わらなかった。
(これで、13球目…!)
2−1のカウントのまま、バッテリーと月舘の攻防は続いていた。このカウントのまま9球連続で枠を外さずに投げ込んでくる黒沢の制球力は、圧倒的といえるだろう。そして、追い込んでからの10球目を黒沢が全身の力をフルに活用して投げ込む。
瞬間的な速さを持つ“疾風怒濤”は、的確に内角高めを突く。150キロ近い速度のストレートは、森岡のミットへ威力を全く殺すことなく突き刺さる――――
が、『またしても』その寸前で黒い線にって弾かれた。
「――――――ツッ!!」
森岡は一瞬目をつむってしまった。打たれた、という考えより、また捉えられた、という思考が回る。差し込まれたのか、打球はふらふらっと1塁側スタンドへ落ちた。
これで、一体何度目のファールか。森岡の視界は絶望の色で染まる。いつになったら月舘を打ち取れるのか、分からない。先の見えない闇が続き、行く手を阻むこともなく、ただの黒が自分のことを静観している、そんな感覚。
2−1のカウントのまま、ずっとこの繰り返しのような気がする。決め球の“疾風怒濤”を投じるも、ギリギリのところで月舘はそれを捉えてくるのだ。しかも時折それを芯で捉えてくるから怖い。
外角への“疾風怒濤”は逆らわずに打つも球威に押されてファールになり、内角に来た球は上手く捌くも瞬間的な速さに目が追い付かずに捉えきれなくなってファールとなる。これが2−1のカウントを整えた時からずっと続いていた。
数球のうちはそのうち月舘のほうから切れるだろうと、そう楽観していた。しかし現実は違った。予想以上に厳しく、手ごわい。先ほどの打席とは違う恐ろしさが見えた。森岡だって精一杯のリードをしている。追い込んでからの“疾風怒濤”のなかにも、しっかりと緩急をつけた配球を取り入れていた。しかしどれもカット、あるいは前へはじき返された。
それを見る限り、月舘に一番有効なのは“疾風怒濤”と分かった。だからこそ、分かった上で黒沢に“疾風怒濤”を連投させているのだ。月舘は先ほどの打席は“疾風怒濤”にタイミングを合わせていたが、この打席、黒沢の投球に力が入っているのか、中々捉えきれてない。だがそれを逆に返せば、黒沢の力のある投球でも打ち取れない、ということだ。
月舘の技術からいって、ここで高速スライダーや“影縫”、そして“方天画戟”を駆使しても、きっとカットさせるに違いない。無駄球を放るくらいなら、まだ“疾風怒濤”で力の限り押すほうがずっといいと森岡は判断しているのだが…、
(だけどそうすると…危惧している黒沢のスタミナが不安になってくる…ッ!)
ここまで尋常ではないくらいの“疾風怒濤”を投げさせている。しかしそれもしょうがない、といえばそれで済むことだ。事実、今の相手は手を抜いて勝てる相手ではない。こうでもしないと、いや最低でもこれぐらいしないと勝てない相手なのだ。だが、この“疾風怒濤”を使ってもダメだというなら、それこそ詰みだ。敵う相手ではなかった、ということになり、その時点で黎学の敗北は確実なものとなる。
後ろには笈沢という心強い2年生がいるが、黒沢の持つような絶対的ともいえる決め球がない以上、月舘や東儀を相手にする前に、翔氏打線を相手にすること自体荷が重い。だが、この試合でどこかの場面で継投しない限り、おそらく失点は免れない。その場面がいつか、を見極めなくてはいけないのだ。
そしてそれが今でないことくらい分かっているし、できればこのまま黒沢に投げきってほしいという思いはずっと強い。
聖域にいるんだから、そんな無責任な気持ちが回を重ねるごとに強くなってくる。
「くそッ…!」
森岡はもう一度、黒沢に“疾風怒濤”を要求した。審判に注意させるのではないかというくらいに時間をかけて思考を巡らした先に答はそれだった。変化球もダメ、黒沢しか投げれない特殊なカットボールも、おそらく全国でも使い手はかなり少ないであろうツーシームジャイロも、おそらく月舘には通用しない。この判断は正しいのかどうか、まだ結果が出ていない今の時点では分かるはずもないが、それでも森岡は今まで同様“疾風怒濤”を要求した。
あるいは、もうこれしかない、という想いがあったのかもしれない。今までのようにこの球で打者を打ち取ってくれ、という、そんな想いが。
森岡はすがる様な気持ちで、捕手でありながらも投手である黒沢の“疾風怒濤”に頼ったという形になる。
ありがたいことに、黒沢は自信満々の顔で、次こそ打ち取ってやるという気持ちがあふれ出ている顔で頷いてくれた。その顔はどこまでも涼しく、心から野球を楽しんでいる表情だった。もう疲れた、もう“疾風怒濤”は投げたくない、そんな後ろ向きな気持ちなど微塵にも伺えない。
誰も悪くないのに、なぜだか森岡は胸が締め付けられた。
森岡はなにも悪くはないというのに、とんでもなく悔しかった。黒沢は悪くないのに、なぜだか自分の捕手としての未熟さに腹が立った。
躍動して放つのは、白い雷を思わせる、爆発的な閃光、あるいは一瞬限りの線光。周りの風を切り裂き、目の前にある原子すら砕き、放たれた白球はミット目がけて突き進む。驚くことに、これも森岡のミットが置かれている外角高めのコースに一直線で「はまる」ものだった。もはや、神業とかそんな軽い言葉では済まされないコントロールだ。そして黒い、月光じみた反射光をまとうバットも、迷うことない速さで振り出された。高速という言葉よりずっと速い速度で、まるで撃ち出されたかのようにしてその真芯の部分はボールへ向かう。
(頼む――――!!)
神にすがる想いで森岡はこの結末を見届けようと、目の前の事象を見る。外角高め一杯の“疾風怒濤”、通常ならほとんど反応もできず、ましてや当てることさえも困難なこの球。
そして2つの標的同士の影と本体が重なり合う瞬間が、来る…。
――――――――空振れ、それか詰まれ!!!
だが、その渾身のストレートをも、『案の定』黒刀は絡みつく様にして捉える。
芯で捉えた音だけが無情に響く、がまたしても“疾風怒濤”の球威に押され、打球はバックネットへ突き刺さった。
“疾風怒濤”がどんなコースに来ても月舘はそれをほぼ確実に芯で捉えてくる。が、捉えたとしてもあと一歩だけ球威に対する力が足りなく、前へ飛ばない。
両者の力が均衡している、そのいい例ではある。
(……クソッ!)
それでも、均衡している、というのはこの今に限っての現状だけ。後々のことを考えれば、黒沢、そしてリードする森岡へのダメージは大きい。元々少ないスタミナのことを考えたリードをするなら、ここまでのような“疾風怒濤”を連投するのは間違いだ。
しかし他の球種を選ぶにすると、“疾風怒濤”よりも打たれる確率がぐっと上がってしまう。打たれると決まったわけではないが、それでも“疾風怒濤”が月舘には一番いいのだと、森岡は判断している。ならば、“疾風怒濤”を投げるのが道理なのだ。
今を見つめるべきか、先を見通すべきか、どうしようもない判断が問われる場面だ。
(一体、どうすれば―――)
ここまで変化球を投げていないわけではない。だがそれでは無効だと判断しているからこそ“疾風怒濤”を投げさせているのだ。どうすれば、森岡は脳の容量がはち切れんばかりに頭を駆動させ、思案する。
(…ここで変化球を投げればあるいは月舘を打ち取れるかもしれない。しかし、どちらかといえば打たれる確率の方が高いに違いない。それでも、先を考えるならば“疾風怒濤”を封じて他の球種で攻めたい。月舘だって人間だ、ただのスローボールでも打ち取れる可能性だってあるんだ。一番いいのはチェンジアップか“方天画戟”。力を抜いて投げれる球だからスタミナの疲労はないに等しい。それにここまで速い球を続けてきたんだ。効果的なのは間違いない。でも、でも万が一それで打たれたらどうする。万が一長打を打たれたら…、そこからの挽回は難しい。――――クソ、やはりそこを考えるとハヤテに“疾風怒濤”を投げさせるしか策はないのか…ッ!)
パンク寸前の脳はまたしても結局のこの結論を生み出す。自分自身、またこの答えか、とうんざりすることだったが、しかしその答えを出したのは自分なので、文句のいいようは全くない。気がつけば、考えすぎたせいか頭には灰色の霧が充満している感覚がある。ぼぅっとして、五感が少しだけ、危うい感じのする感覚。
今までこういう感覚は味わったことがないだけに、気味が悪いという意味で新鮮だ。目もやや視力が悪くなっている感じもするし、耳も遠くなったせいか、歓声が小さく聞こえる。右手を握ってみると、どうやら握力の伝わる神経も鈍い。背中にも嫌な汗があることが分かる、やや長めの髪がひしめく頭皮にも気持ち悪い水分が多量にまとわりついている。
おそらく、と森岡は出来るだけ冷静に考える。これは少しばかり頭が熱くなったせいだ、ただのオーバーヒート。高揚が悪い方向にいっただけだ、ランナーズハイの後みたいな。この状態のままリードするのは絶対に嫌だ、個人的にもそれは却下したいし、なにより万全の行動、完璧な思慮を回すことができない恐れがある。
ならば、尚更早く終わらなければならないじゃないか。ははっと疲れ切った声を出してみる。悪態の1つも呟いてみたいが、あいにくそんな余裕もない。
今はともかく、このピンチを切り抜けることだけに集中して―――――
「キミ」
ポンと1回、肩を叩かれた。不意なタッチに、森岡は自分だけの虚無的世界から目を覚ます。え、え、と周りを見渡す。今自分の肩を叩いたのは誰ですか? といるわけもない誰かに尋ねるように。
と、冷静に考えれば自分の肩を叩けるのは1人しかいないじゃないか、と気が付き、、首だけを後ろに回した。
「えと、なんでしょう」
出来るだけの笑顔で審判にそう訊ねると、審判は指を真正面に指すだけでそれに答えた。
え? と思い森岡は審判から見ての真正面、黒沢のいるマウンドを見ると、そこには自分を除いた8人、加え1人がいた。
どうやらその加え1人は庄田山監督の出した伝令らしい、ここで一呼吸入れようとしたのか。森岡としては、無駄になりそうな時間は使いたくなかった。とりあえず行かないわけにもいくまい。見れば9人全員森岡のことを不安そうに見ている。どうやらこっちの抱えていることはあっちにも筒抜けらしい。
ぐっと腰を上げた。いつも以上に重い気がする。座りっぱなしだったせい、ではない。ただの気のせいだ。マウンドに着くと、マスクを取りながら森岡は笑顔を浮かべ、皆に余計な心配はかけまいと頑張ってみる。頬に当たる冷たい雨が気持よかった。
「ごめんごめん、ちょっと考え事してた」
「お前、ちょっと張り詰めすぎだって」
薙多は腕を組み、苦笑しながらそう言った。そういうところもお見通しか、と森岡も素で苦笑することとなった。
「……森岡、お前大丈夫か?」
やや上のほうから、黒城の声が聞こえた。
「大丈夫って、なにが?」
「……顔が、青い」
「んげ、ほんとだ」
黒沢が下から覗き込みながら黒城の言葉に相槌。
「なんか限りなくグレーに近いブルーって色してるぞ」
「なんでそんな微妙な色なんだい、ハヤテ」
そう言いながら森岡は自分の手で頬を触ってみた。肌を雨にさらしてからそれほど時間が経っているわけでもないのに、まるで冷水のような冷たさが指先から伝わった。
「あれ、おかしいな」
もっと熱くなっていたハズなのに…。頭が真っ白になるくらいに熱くなっていたのだから、もっと火傷するような熱さがあってもいいはずだ。
不意の自分の感覚と感触の違いに戸惑っていると、
「ごめ、ちょっとどいて」
薙多が森岡の前に立っている黒沢をどかし、ずいっと強引に前へ出てきた。
「? どうしたんだい、コウジロー」
笑顔でそう返しても、なんの言葉も聞こえなかった。見れば、先ほど軽口を叩いた時より、ずっと険しい表情を浮かべていた。
まるで、打席に入る時の真剣な顔。この表情を面として向けられれば、自分が何か悪いことをしたんじゃないかと不安になってしまう。それほど、薙多のその顔は、森岡の不安そのものを射抜いていた。
全てを見通すその透明かつ真剣な目を持った薙多は、静かに口を開いた。
「ケンジ、ちょっとメット外してみ?」
一瞬その意味がわからなかった。
ただ単に自分の頭が熱くなっていることを察したのか、少しは雨に打たれて冷やしてみろ、と遠回りに言ったのかもしれない。この場合、そうやって言うよりもただ直で言った方が分かりやすいと思うのだが。森岡は素直に頭を覆っているヘルメットを外した。頭皮、そして髪に纏わりついている水分と蒸気のおかげで、外した瞬間になんとも言葉にし難い感覚が背中を這いずった。
「…ん、外したよ」
そう言うと、頭に違う感触。冷たく、そしていて気持ちい感触。
それが雨だとわかるには、時間はいらなかった。
随分と頭は冷感を求めていたんだな、と何気なく思うと、その冷たい感触とは違う異質ともいえるモノに築いた。
「――――え?」
それは、視線だった。
マウンドにいる自分を除いた9人の目から送られる、いつの間にか人ではない何かがソコにいた、というような、そんな視線。ドラマやアニメ、映画でしか見たことがない、あまりにもフィクションじきみた視線が自分に注がれていた。
森岡からすれば、この状況にてそんな目を皆から送られるのは、非常に耐えがたい。戸惑いと、不安が一斉に送られてくる、そんなありがたくないものは、いらない。
「……ねぇ、みんなどうしたの。そんな物珍しい深海魚を見るような目をして」
笑みはなく、ただ率直な疑問をぶつけると、誰も答えてはくれなかった。その中で薙多はゆっくりと、その戸惑いの混迷の表情を隠さずにして、ただ静かに、言う。
「ケンジ、お前、髪の色変わってるんだけど」
当たり前だが、この状況にして、今の薙多の言葉の意味が分かるはずもない。
特にそれを言われた当事者である森岡の心理や精神的疲労を考えても、その言葉の意味が理解できるはずもない。
「…え、それどういう意味だい?」
事実、森岡もそうであって、周りもなぜ森岡の髪の色が、いつものような、女性の持つ淑やかさと綺麗さを含んだ「黒」ではなく、何故脱色した「茶」になっているのか、まったくわからなかった。
薙多は黙って右手を森岡の前髪にやって、ぐいっと強引に髪の毛を数本引っこ抜いた。
「――――っつ!」
皮膚の感覚神経まで疲労に犯されているのか、いつものように棘を突き刺したような痛みはなかったが、それでも思わずの痛痒に小さく声をあげた。
薙多は毟り取ったそれを無言で森岡の前に出し、何も言わず見せつける。見せられたその自分の髪と思われるもの、それは見間違えようもなく、茶色だった。
「……え」
小さくそれだけを口に漏らす。なぜ自分の髪がこんな色をしているのか、なんであんなにまで漆黒だった髪が、こんなに痛々しい茶色になっているのか。
それを見て、森岡はただ愕然とした。言葉も出ないほど、考えが回らないほど、自分自身が自分自身の異常のために麻痺した。
そして薙多は、そんな森岡の代わりに、言うべき言葉を放つ。
非常なまでに厳しいその言葉は、意外とすんなり頭に浮かんできたものだ。それは、薙多の深層心理の奥にあった、薙多が3年間共にいた森岡を思っての、気遣いに近い言葉。もっとも森岡が聞きたくない、もっとも言いたくない、もっとも森岡のためであり、もっとも正直な言葉を、森岡へ向けた。
主将とか、チームメイトとか、この後の試合展開とか、そんなもの関係ない。
ただ、森岡の為に。
「森岡、替わったほうがいい。お前のためにも、チームのためにも」
右足を踏み込めば 第28話「束の間の間奏曲」
それは果ての見えないもの
終わるのか続くのかさえ分からない。
第28話――Momentary interlude.
1死3塁、そして打順はクリーンナップの中軸3番4番という大チャンスも、高宮の剛腕によって潰された。もはや今のようなチャンスはこの先ないと思っていい。あるとしてもそれはきっと1度きりだ。
そうなると、あとはどこまで黒沢が踏ん張ってくれるかにかかっている。
正直、4回のピンチは危なかった。我ながらよくあんな判断を下せたとしみじみ思う。味方にとっても相手にとってもあのプレーは大きかった。だからこそその裏に「ピンチの後にチャンスあり」という格言通りの機会を手に入れることができたんだと思う。
チャンスは潰されたが、流れは確実にこっちに傾いている…ハズだ。少なくとも、チャンスへ至るまでの形はこっちのほうがよかった。あちらはあちらでホームまで行こうかというところまで来たが、それでもそれを見事なプレーで阻止し、そしてその裏にチャンスを作ったことから、流れ自体はこちらにあるのだ。
勝てる根拠にもならない、確率を作れるモノではない。しかしそれでも、それにすがるしかない。作れるものは生かし、作られたものは潰し。勝つための常用手段は遠慮なく使わねばならない。そうでもしないと、勝てる相手ではないのだ。
5番から始まるこの回。できれば三者凡退に抑えたい。翔氏打線に穴などない、しかし“疾風怒濤”の多用はしたくない。どうすれば1つ1つを切り抜けられるのか、本当に頭を悩ませてくれる相手だ。
先ほどから降ってきた雨が煩わしい、小さくそうぼやいて、森岡はマスクをかぶった。
この回の翔氏は5番の喜成から。長短打を打てる打者であり、東儀の後釜を持つ打者として、そして嶋倉に繋げる打者として信頼の厚い打者である。先ほどは追い込んだ後に高速スライダーを2球を続け、サードゴロに打ち取っている。
急な雨のおかげでやや湿った土を足で入念に慣らして喜成が左打席に入る。1、2度バットを回し、気合いの声を叫んだ。無論、そんなものでビビったりはしない。
森岡はぐっと外側に腰を下ろし、低くミットを構えた。そして黒沢が振りかぶる。いい感じでマウンドが湿ったのか、先ほどよりも踏み込む音が激しく聞こえる。
低い位置から放たれたストレートが決まる。クロスファイヤーできたこれを、喜成はやや肩を揺らし見送る。
縦と横の角度がある球は、どんな好打者であろうと打ちにくい。その事実に従って森岡は初球にそれを選んだ。今の反応で喜成はこれ系の球が苦手そうだ。どうみても、落ち着いての見送り方ではなかった。ほぼ9割方、初球を打ちに行ってそれが苦手な球、あるいは手が出ないと判断した見送り方だ。
ならば、と森岡は黒沢にサインを出す。黒沢はそれに頷いて、躍動する。放たれたボールは、途中で急激に軌道を変えた。
当てにいった、それでもって軸自体が泳いだ喜成のスイングは、先ほどと同じコースに決まった高速スライダーを捉えきれない。
黒沢も絶妙のコントロールでボールを投げ込んできている。この調子ならば打たれる気がまったくしない。捕手としても、安心して投手を引っ張ることができる。
流れを掴んだまま、2球で打者を追い込むことができたのもいい要素だ。ここは見せ球無駄球は放らず、3球で打ち取りたい。できれば三振がベストな結果だ。森岡は3球目も外への指示。しかし球種は2球目までの速い球とは違って、チェンジアップ。そしてそれを外の低めギリギリへ要求。ここまでの配球からしての流れ、そしてこのチェンジアップならば最低でも凡打には打ち取れるコース。
黒沢は全面的に森岡を信頼しているため、どんなリードをしてきても怪訝な顔こそすれ首を振ることは滅多にない。この場面でのチェンジアップの要求にも素直に頷いた。
(よし、こい…)
ぐっと限界まで体勢を低くしてミットを構える。落ちる系の球種はこの体勢で捕球したほうが判定を味方につけやすい。
地面を踏み締める音がはっきりと聞こえた。そして黒沢の小柄な体が大きく前に飛び出し、勢いよく、見えないほどに速い腕が振られた。無論、喜成もその勢いに負けないくらいに強く踏み込んだ。
が、ボールはその2人の勢いに反して、ゆったりと弧を描く遅い球。
「…っぐ!」
小さな呻きは喜成からだった。遅いチェンジアップに対し、足の踏ん張りが利かず体勢が大きく崩れたからだろうか。結局、徐々に沈んでいく球を追い切れず、バットは見事な、そして無様なくらいに綺麗に空を切る。
高らかと審判が三振をコールすると、喜成はすごすごと打席を去っていった。
まず、1アウト。
森岡はマスクの下で息をつく。正直、しんどかった。全員が全員、プロや大学関係者が注目してるといっていいメンバーを相手に、ここまでずっとリードしているのだ。それも1球1球、丹念に入念に。
大粒の雨が常に頭を打つ。しかしヘルメット越しにその冷たさが伝わるはずもなく、森岡の頭は早くもオーバーヒート直前に近い。すぐにでも防具を脱いで行き過ぎた熱を取らないと、思考もまともに動いてくれなさそうだ。しかし、追い打ちをかけるがごとく、次の打者は嶋倉だ。
評価だけで情報が全くない選手も珍しい。そしてこの嶋倉がその1人だ。前の試合で見たのはいいが、はっきりいってバッティングは未知数に近い。翔氏のほとんどのレギュラーは去年に秋に黒沢と対戦しているからある程度の目処がついたリードができるものの、この嶋倉とは対戦していない。
見ただけでリードするのと、前に直接の対戦があるからこその情報を持ってリードするのとでは、大きく違ってくる、少なくとも、黒沢との相性が分からない。
先ほどは上手い具合に嶋倉から高速スライダーをひっかけ、打たせて取ったが、ここからはそんな簡単にはいかなくなる。
(くそ、頭が痛くなる…)
思わず小さくでもいいから悲鳴を上げたくなるが、そうはいかない。
頼むぞ、ハヤテ。
ただひたすら、自分のインサイドワークではなく、相方である黒沢の投球の出来を祈った。
「おっ願いしまーーーッす!!!」
元気、いや無邪気な声が嶋倉から聞こえた。なんというか、ほんとにこのグラウンドに似合わない奴だと、黒沢は正直にそう思った。あんな容姿でプロも注目、というのだから驚きだ。
確かに準決勝で見せたバッティング技術、そして守備の動き、そしてデータ上の数字では、プロも注目をせざるを得ない選手だ。
だが、当人を一目見ればアレだ。投げにくいというのもあるし、見た目で打たれなさそうだ、とも思う。パッと見の判断だから、故にそれは無意識でそう思っていることになる。心底では油断しているという意味にも繋がる。
(んなもん思ってちゃいけねーな)
汗と雨を払うように、黒沢は帽子を取って首を振る。少しだけスッキリした気がする。今相手に集中するには、その少しだけのスッキリで十分だ。
森岡からのサインは“疾風怒濤”をインハイへ。あっちも油断なく攻める気らしい。その強気なリードに応えるよう、黒沢は腕を振り下ろす。
白い線を引いて白球がミットに収まる。コースはストライクゾーン一杯のところ、プロでさえこの球はそう簡単に打てるはずがないとも思えるほど最高の球だった。
「うわぁ、すっごいなー今の!!」
よほど興奮したのか、嶋倉が大声で騒いでいる。見た目、初めてアミューズメントパークに足を踏み入れた子供のようだった。
黒沢、森岡の共に、このガキが「うるさい…」と思った。
早く終わらせたいという気持ちか、森岡の次のサインは高速スライダー。早くもこれで打ち取るかカウント的に追い込む気だ。黒沢もそれに大きく同意、グラブの中でボールの握りを変える。そして大きく振りかぶり、自慢の高速スライダーを勢いよく放つ。
「―――ッらぁ!」
狙うは、外角の外れているコースから真中へ切れ込む、ギリギリのコース。その狙い通り、ボールはキレ良く内へ急激に曲がる。
打っての凡打、判断が良い打者なら、追い込まれてない限りこれは見送るだろう。それほどまでにこの高速スライダーは1球目の“疾風怒濤”同様、最高の球だった。普通の打者なら手が出ないこのボールに、しかし嶋倉はバットを出してきた。まるで定められた音符をなぞっていくように美しいバットの軌道は、素晴らしいキレを持つボールに迫っていく。
(いや、この完璧なスライダーが打てるはずがない…!!)
受け手である森岡でさえもこのスライダーには舌を巻いた。流石黒沢、いやゾーンを持つ者か。ただでさえ制球が乱れ変化球が投げにくくなってしまうアーム投法にも関わらず、ここまで制球を操り自らが投じる変化球をキレさせる投手など、全国を探してもおそらくこの黒沢だけだ。
誇れる、この投手が味方であることを。そしてその絶対的な黎学のエースが完璧に投じたこのボールが打たれるハズがない。
しかし、その思いごと、バットに弾かれた。
黒沢の投じた『完璧』を、嶋倉の『技術』が打ち砕く。それが、バッテリーの持つ『自信』に似た『限りなく確信に近い慢心』が崩れた瞬間だった。
毒づく暇もなく森岡はメットを剥ぎ取り、外野へ指示を出す。1死にしろ、1人でもランナーを出すとまずい。翔氏打線に穴がないのは承知、それよりもこれ以上のピンチを広げるのがいけない。
月舘をピンチで迎えてしまう。その思いだけが、森岡の衝動を突いていく。
放たれた打球はセカンドの頭上を越す。
急に降ってきた大粒の雨のせいで外野の芝は湿っている、いや完璧に濡れており、打球の勢いを吸い込んでいく。そのおかげでライトとセンターの間を破ることはなさそうだった。
しかし、打者は俊足の嶋倉。少しの隙があれば積極的な走塁で次の塁を奪っていく。この場面で2塁を取られれば大きなピンチを招くのと同じ。それだけは絶対に阻止しなければいけない。
打球の処理は薙多が声をかけて自分が行くとの信号を発した。センターの甘寺は万が一の事後処理のために打球の後ろ、薙多の背中へ回り込むように走る。そして薙多がグラブで打球を掴む。間髪入れずにルックアップ、見れば嶋倉は1塁を蹴り、その勢いを殺さずに2塁を狙う動きを見せていた。
「やらせっかよぉッ!!」
追いついた時の運動エネルギーを寸分の体から逃さずに内に留める。そして勢いよく肩、そして下半身を動かし、連動させ、送球。体勢自体に動きはないため先ほどのバックホームのようなレーザービームのような送球はできないが、それでも内に留めておいた運動エネルギーを利用して送球したボールはやはり速い。
その送球は完璧なまでにコントロールさせ、セカンドベース上にいる江上の構えたグラブに一直線に飛翔する。
「あ、これヤバッ」
送球を見て間に合わないと判断したのか、嶋倉は塁間の真ん中あたりを過ぎたころにブレーキをかけ、そして反転、1塁へ戻ろうとした。もちろん、その時点から1塁へ戻るのにはそれなりの距離があるわけで…。
「やらせっかよコノヤロウ!」
薙多からの送球を受け取った江上はすぐさまクイックで1塁へ送球。嶋倉も素早い動きで1塁へたどり着こうとするが、流石に送球の速さに敵うわけもなく、手がベースに届く前にボールが池原の手に収まる。
「大人しくアウトになれよ!」
「嫌だねッ」
わざと強めにタッチにしていく池原のミットを前に、それを分かっての無謀な行為で嶋倉は強引にヘッドスライディングをしてくる。完璧にアウトのタイミングで、なぜこうも強引にスライディングしてくるのか。それは誰にもわからない。
池原のファーストミットはすでに嶋倉の頭上に降ろされている。嶋倉は身長が小さい成せいか、まだ手がベースに届きそうになかった。
だが、わざと叩きつけるミットの勢いを強くしたおかげか、
ボールの入ったミットを嶋倉のメットの叩きつけた瞬間、その反動でミットからボールが跳ねた。
「―――――え?」
わずかばかり、江上の送球をミットの先で捕っていたため、そのタッチの反動への我慢が足りなかった。おかげで、ボールはポンと小さく間抜けな音を出して宙に浮いてしまった。
まさかのハプニングに、池原、森岡、黒沢の声から同じタイミングで間抜けな声が出た。えぇ、こんなことになるなんて―――
不足ともいえるこの事態に、しかし対処することはできず、ただこぼれたボールが落ちていくのを見てるだけ。
そして嶋倉はそのままベースにタッチ、まだ事の事態を把握はしていない。それから、そのボールが自分の顔のすぐ近くにボールが落ちるのを知ると、ボールがなぜこうなったかの過程を知るのを飛ばして、自分がセーフになったのを知る。
すると、泥のついた顔になんとも無垢な笑顔を浮かべ、
「あ、これラッキーってやつ?」
そう言った。
それを間近で見た池原は、なんとも苦々しい笑顔をするしかなかった。
1死1塁。ここから下位打線だが、油断はできない。というか、相手が相手だけにしたくない。
下位打線といっても、他校なら上位を張れる選手ばかりだ。下手な攻めで行くと間違いなく痛打を食らう。丁寧に、慎重に攻めて損はない。
嶋倉の時のようなアンラッキーなどもう起こることなどないと信じ、ベストで残りを可能性を刈り取っていく。
雨は依然鬱陶しいが、そんなものでコンディションを崩されるわけにもいかない。
黒沢は自分の実力、そして自らも気づかないゾーンを駆使し、7番を早々と2−1のカウントに整える。が、そこから今度は慎重に行き過ぎたのか、それとも打者が上手いのか、そこから5球も粘られる。そしていつの間にかカウントは2−3と黒沢までも追い込まれる形となった。
(ええい、くそ!!)
(はいはい、落ち着く落ち着く)
流石は翔氏打線というわけか。相棒ということもあり黒沢の苛立ちは手に取るようにわかる。
追い込まれたからにはそうそう際どいコースへは攻められない。しかし相手もこうなってくると甘いコースに的を絞るだろう。それを逆手に取ってやるのもいいのだが、僅かにでもコントロールを間違えると四球を出すことになってしまう。
どちらもどちらで危ない道だ。甘いコースに投げれば長打もあるし、際どいコースへ投げれば四球がある。森岡に選択権があるが、誰でもこの選択は悩むに違いない。
そして森岡はたっぷり5秒弱時間を使い、そして選んだ。
(ここにお願い、ハヤテ)
森岡が選んだのは、右打者である7番の鈴木から見て外角の低め、そこへのギリギリ一杯のチェンジアップ。ここまで鈴木に対してはストレート一辺倒で攻めている。ここでのチェンジアップは効果的に違いない。四球の危険性もあるが、ここで長打を打たれるよりはまだいい。失点より1つのベースを明け渡す方が賢明だ。
そして、森岡は黒沢の実力とゾーンを威力に賭けた。
(ここで効果を発揮しないようじゃ、それはゾーンって言わないしね)
あくまで、非常な考えを持って黒沢を引っ張る。だからこそ、強気な黒沢もそのリードに応えてくれる。大抵の投手は着いてくれはしないが、黒沢は着いてきてくれる。だからこそ黄金バッテリーの名が恥じることなく板についている。
黒沢はその強気なリードに強い意志を持った眼で頷く。思わず森岡はそれに口元を緩ませてしまう。こんなリードに素直に従ってくれる黒沢が、なによりも嬉しかった。
そしてその自らが出した期待に応えてもらうよう、森岡は腰を低くした。
黒沢がセットポジションからすっと動き、その短い動作をすべて無駄にするように大きく腕を振る。フルスイングとでもいうような動きから放たれたのは緩いチェンジアップ。
コースも完璧に近い。やや中に入っているがしっかりと低めに来ているので、十分に森岡の出したサインの許容範囲だ。
鈴木は先ほどの喜成と同じように体勢をガタガタに崩されている。それでもなんとかバットを出そうと必死に腕を伸ばしていき、
ギリギリでバットがボールに届く。
幸か不幸か、打球に勢いこそないが三遊間のど真ん中に飛んでいる。
ややライナー性に近いが、勢い自体がほとんどないため、フラフラ〜っとした擬音がぴったりだ。
そして打球は地に落ちる。ショート江上の出足が早かったせいか、ゲッツーを狙えるタイミングだ、普通なら。
「んげッ!?」
普通なら、ゴロになるはずの打球が地についた途端に、音もなく『止まった』。
雨でグラウンドがぬかるんでいたせいだった。先ほどから急激に降り始めた雨は、すでに土が打球を威力を水分で吸い取ってしまうほどにグラウンドを水で満たさせていた。
結果、鈴木の捉え損ね以外の何でもない打球は、グラウンドに落ちた途端に勢いを全てグラウンドに吸い取られ、そこにピタリと止まってしまった。
やばい、これはやばい。森岡は一気に冷静を失った。今の状況を見失い、先のことばかりを考える。
――――――ピンチが来る、このことばかりを考えた。よって、出すべき判断が遅れる。
捕手の判断なしでは内野は満足に動けない。練習をどんなに積み重ねても試合になるとそんなもの関係なくなる、見えない何かが作用するからだ。
江上は勢いをまったく失った打球に向け全力でダッシュ、2秒に満たない時間で追いつくと、素手で掴んでランニングスローで1塁へ投げようとした。
「このヤロ――――――
「投げるなッッ!!!!」
野太く、そして重い声が隣から響いた。それはまるで、太鼓の演奏会にて会場に響き渡り、聴く者の腹を揺るがすような太鼓が醸し出す思い音響のような声だった。
「―――ッと!」
その声に威圧されたのか、あるいは声の意味を理解したのか、江上はスローイングを止める。ダッシュの勢いを殺せずに、前へ足をもつれさせながら、一瞬で思考を巡らし、状況を把握しようとする。
今の声は誰だいやそれよりもなぜ1塁への送球を止めさせたなんで今の状況で1塁へ投げてはいけないのかそうか打球の勢いが死んでそれに追いつくまでの時間が長くなった分だけ1塁ランナーは走る距離が長くなるよって今の状況ではそのランナーが3塁を盗む可能性が大きかっただから俺が送球しようとしたのを止めたのださすが森岡グラウンドをよく把握しているいや今の声はほんとに森岡かあんな声を出すはずがないだったら今の声を出したのはいやそんなことよりも今はまず―――――。
(2塁ランナー!!)
瞬時に考えを頭、そして体に回した江上は、なんとか足で踏ん張りを利かせ、セカンドベースを振りむく。見れば、ランナーの嶋倉が3塁を狙っていたらしく、大きくオーバーランしていた。
木山は最初にゲッツーのための動きか、丁度いい具合でベース上にいる。迷わず江上は送球した。
しかし、土がぬかるんでいて軸足を固定させることができなかった。わずかばかり、状態が傾く。送球は狙った通りのところへいかない。胸を狙った送球は横に逸れる。
「ぬぁっ!」
木山はなんとか上半身と腕を伸ばしてその逸れた送球を捕球する。そこからなんとか嶋倉へタッチしようとしたが、やはりというか今の時間の中では大きなロスがあり、タッチが間に合わずセーフとなった。木山は大げさな動作の審判を嫌に思い目をそむけると、片手でスマナイと言ってくる江上が目に映った。
別のこのグラウンドコンディションじゃこんなこと珍しくないし、責任を問うつもりもない。自分だって江上の立場に変わったら同じミスをしでかすかもしれないし、もっと大きなミスをしていたかもしれないのだ。謝る必要はないとグラブでジャスチャ―し、江上に笑顔を向けてやった。
回を数えれば5回、事実それほど進んでいない。点を取るに急ぐに越したことはないが、焦る段階でもない。まだ点は取られてないのだから。木山は球場全体に通る声でピッチャー楽にいこうぜと声をかけながら、黒沢のボールを投げた。
そんな木山の思いに反して、森岡の心は焦りを極めていた。
あまりの予想外が2つ続いて、今の場面でその焦りが出たこと。結果大きなピンチを招くかもしれないところだったこと。そして、今の場面がとんでもないピンチだということ。
判断すべきところは黒城に助けられたが、彼がそれをしなければどうなっていただろうか。考えただけでも怖い。
くそ、とマスクの下で小さく悪態をつく。黎学の主将であり扇の要であるキャッチャーの自分がなにをやっているんだ。
とにかく、最低でもこれ以上の状況悪化は防ぎたい。1死ランナー1,2塁。そして打者は8番。下位打線であるここでなんとしても打ち取りたい。できればゲッツー、最低でもこの8番を単体で打ち取って、次の9番でこの回を終わらせるというのが理想だ。
1人でも塁に出して満塁にしてしまうのは最悪のケースだ。8番を出すのはともかく、8番を打ち取った後の9番を出すのは絶対に避けたい。満塁で月舘に回るのがもっとも危惧すべき事態なのだから。
月舘はここまで黒沢の一番タイミングが合っている打者だ。結果こそピッチャーライナー、そしてボテボテの内野安打だが、1打席目は裏を掻いた“影縫”を真芯で捉えられ、2打席目も10球近く費やしてなんとか詰まらせることができたというものだ。この試合、月舘によって黎学バッテリーは踊らされているといっても過言ではないのだ。
だからこそ、この回に月舘まで回してしまうのは避けたい。なんとしても最低2人で翔氏の攻撃を断ち切る。
8番の渡辺は巧打力に長ける選手、ここは力で押して詰まらせるのが得策か。結果それが程良い内野ゴロになってゲッツーが取れれば儲けだ。
森岡は手短にサインを出し、ミットを構えて黒沢を促した。
(なに焦ってんだアイツ…)
下位打線に初球から“影縫”とは、ずいぶんと森岡らしくないリードだなと黒沢は思った。
それに、渡辺はパンチ力こそないがボールを芯で捉える力はずば抜けている選手だ。その打者相手に、回転数が多い、芯で捉えられると飛びやすい“影縫”はあまり効果的とは言えない。むしろ、捉えられたらそれこそこの打者相手に長打を打たれるかもしれない。
森岡らしくない、落ち着きが感じられないリードだった。こういう打者相手にはむしろストレートのような球威のある球で押していくのが一番いいと思うのに。
(まぁ、それでも…)
首は振らないが。森岡が全てで、森岡が正しい。バッテリーを組んで以来、そう思ってきた。揺るぎない信頼が黒沢の首を縦にしか動かさない。例えそれが怪しげなサインであろうとも、それは森岡なりの考えがあってのことだと割り切ることができる。実際今までそうであり、そのサイン通りの投球をした結果は言わずもがな。
その結果こそが、なによりの信頼できる証拠となる。
だからこそ黒沢は、森岡を100の内の100を信じて腕を振る。放つのは、異質のカットボール“影縫”。その軌道は、文字如くバットの本体ではなく地面に映る影だけを縫うようにして変化する。
まるで日本刀を斜めから斬り下ろすように、ストライクゾーンの低めへそれは落ちる。
しかし、それに渡辺は対応する。線を引くような柔らかいスイングが、ボールを叩くのではなく、優しく撫でるかのようにして捉える。
そして決して快音とは言えない、軽い音が耳に届いた。力のないスイングになったため、それほど強烈な打球が放たれたわけではなかった。
若干振り遅れていたのか、打球はライト方向へ。無風だか打球は流れるようにして飛んでいく。
「んなろぉッ!!」
薙多は元より前進守備だったが、打球はそれよりずっと前に落ちそうだ。そして案の定、薙多の一歩手前でバウンドする。
くそ、と薙多は濡れた芝でいいあんばいに湿った打球を掴むと、全力でバックホーム。さきほどのイレギュラーとグラウンドの状態を考え、今度はダイレクトで投じた。だが、2塁ランナーの嶋倉は3塁を回っていなかったため、その送球も無意味なものとなった。それは送球が腰をおろした森岡の胸へストライクだったこと、そしてその送球が空気と水滴が混じり合う空間を引き裂くような送球だったことを判断してのものだったのか。いずれにせよ、黎学側からすれば勿体ない。オーバーランで2度も危ない場面を作ってしまったからこそ、俊足でありながらもホームを狙わなかったというのもあるのかもしれない。
しかし、これで、
(……満塁―――ッ!!)
指が手のひらに食い込み、血が出そうになるまで森岡は己の右手拳を握り締めた。自分の、せいだ。こう思えずにはいられなかった。
1度ならず、2度までも自分はチームにピンチを呼んだ。そして今度のピンチこそ、一番危ない場面を作ることとなった。
1死満塁。ゲッツーを取らない限り、月舘へ回ることとなる。ここはなんとしてでも、9番の高宮に内野ゴロを打たせてなんとしてもダブルプレーに打ち取りたい。そうでないと、得点圏にランナーを置いたまま月舘を相手にすることとなる。それだけは、なんとしても避けたい。
今の黒沢は、バッテリーを組んで以来一番調子がいいと踏んで間違いない。聖域の力も相まってか、その実力はとんでもなく高い。“疾風怒濤”を始めとするストレート、高速スライダー、カットボール“影縫”、ツーシームジャイロ“方天画戟”。どれも威力は満点だ。これらを満足できるほどの駆使すれば、大抵の打者は簡単にねじ伏せられる。
しかし、月舘はその例外に位置する。黒沢の全てを持ってしても、打ち取ることは難しい。打ち取ることができたとするなら、それは森岡にとって計算外と見ていい。それほどまでに、壁は高すぎる。だからこそ、9番の高宮で終わらせたい。
森岡は腰をどしっと下ろした。なんにしろ、ここで終わらせなければいけないのだ。黒沢を信じて、自らの思いをその左腕に託す。
(頼むぞ、ハヤテ…ッ!)
『9番、ピッチャー、高宮くん。背番号、1』
高校球界ナンバーワン投手が右打席に入った。元々のセンスが高すぎるおかげか、高宮のバッティングもそう悪くはない。自らの投手としての能力と比較されがちであまり目立たないが、それでも長打から短打まで打ち分けることができる、いわばスプレーヒッター。
しかしそれでも、バッテリーにとっては都合がいいことに、低めを苦手としている。あくまで割合の話だが、低めを打った場合は7割方打球はゴロになっている。無論、森岡はそれを知っているため、いつも以上に腰を低く構えて黒沢にボールを要求する。
黒沢、高宮への第1球、低めギリギリにストレートが決まる。実に際どいところだったが、凄まじいノビが幸いしてか、ストライクを取ってもらえた。高目はボールと判断される場合があるが、低めはストライクと見なされる場合があるので、やはり黒沢のストレートは使い方に癖がある。森岡はそれをうまい具合に使いこなしているが。
高宮は今のストレートをなんの素振りもせず見送った、そして今の微妙な判定にもなんの態度も表わさない。不思議だ、この場面、普通の打者なら緊張してしまい、僅かながらでも表情になにかがあるはずなのだ。それが投手としてなら尚更だ。
しかも今はスコアタイで、しかも自分たちのチャンスだというのに。これはさすがにポーカーフェイスで知られる高宮でもおかしい。もしかして、表情を察せられてばれたくないことでもあるとしたら…?
そこで森岡はハッと気づいた。
(もしや…スクイズ、か?)
ありえないわけではない。それも有効手段の1つだ。
相手、状況、これからの試合展開を考えれば、1点は貴重だ。さらに試合はこれから終盤に入ろうとしている。ここで1点を持っていれば余裕が持って試合を運べる、つまり主導権を手に入れることができる。ここでの1点は戦場にて制空権を支配されるに等しい。あとは敵の攻撃をただただ受けることとなるだけなのだ。ならばバットに当たったボールが転がりやすくなる低めは厳しい。せめて浮きやすくなる高めに放るのがベストとなる。
それも、ただ闇雲に投げていてはいけない。あくまで慎重に、相手の心理を読み取りながらでないといけないのだ。
森岡は2球目に“疾風怒濤”を要求した。これならば、バットに当てたとしても打球は浮きやすくなる。事実、“疾風怒濤”は浮いてくる球なのだから、バットに当たった時の角度を考えても打球が浮きやすくなるのは道理だ。
黒沢はセットポジションから、出来るだけ素早い動作で“疾風怒濤”をミット目がけて投じた。
――――背後で動いたランナーの動きは見えない。
「ランナー走った!!」
黒城の声が耳に響いたのと、高宮がバントの構えをしたのはほぼ同時だった。その一瞬で森岡の腰は高くなる。黒沢の腕が微妙に鈍くなる。
おかげで放たれたボールは、セットポジションでもあったためか、やや威力が低いものとなった。
やばい、と森岡が思った瞬間、影2つが交差する。バットとボール、2つの影は一瞬重なり、交差し、そして――――、
すり抜ける。
バシィと弾ける音がミットから放たれた。完璧に腕が振れなかったのか、コースは僅かばかり高い。しかし審判の「ボールッ!」という判定を聞く暇もなく、捕球した瞬間には森岡の眼はすでに投球作動時に3塁ベースを蹴っていたランナー嶋倉に向けられていた。
どうやら今のは牽制だったらしい、元よりホームを触る気はなかったのか、嶋倉は早々とベースへ戻っていた。
ほっとしたのか、森岡は息1つ大きくはいた。だが、心休める時間は一時もない。
完全に揺さぶられている。黎学の土台である砂の城が徐々に削られていく。このままではこっちから崩れるのが目に見えて分かる。しかしだからといって、この場面でこっちから仕掛けに行くことはできない。
(ここで、僕たちはどうでればいいんだ…)
こう迷っている時間すら、森岡にはない。捕手が迷えば全員が迷う。自分がナインの不安の発信源になるわけにはいかないのだ、絶対に。すぐに判断し、早急に投手を始めとした選手を引っ張らなければだめなのだ。
――――くそ。
心が、落ち着かない。
3球目は外角の高めにストレートを要求するも、これは外れる。今度はなんの揺さぶりもなかった。まさか、とは思うが、スクイズをしてこないという可能性にも森岡は目をつけた。ここで押し出しにさせて黒沢の自滅を狙うという手も、手ではある。森岡も指揮官だとしたらこういう判断を下す時もあるかもしれない、と思った。
ならば、ここでカウントを悪くするのはあまりにも悪い。少しでもカウントが悪くすれば、それこそ四球を出す前から自然と黒沢から崩れてしまう。しかし、ここで一転甘い球を投げ、それを狙われたらたまらない。
こんな手を、敵は本当に狙ってやってきているのだろうか。あまりにも、あまりにも非情すぎる。なにを投げるにしても、追い込まれるしか道はない、そうとしか言えない状況になってしまった。
(……ここは、ストライク先行が一番安全か)
つくづく、自分の頭が嫌になる。考えが深くなればなるほど、こういう状況では嫌な想定しかできないのだから。4球目、黒沢に“影縫”を要求する。できればここはバントさせにくく、比較的ストライクが入りやすいこの球が一番と判断した。
バントで来て、それでもしこれを当てられたらゴロは必至だが、それでも際どいボールを投じそれが外れたと判定されるよりはまだいい。自ら崖を歩いて行く必要は、まだない。
スパイクが土を噛みつく音が聞こえた。勢いのあるフォームから左腕が振られ、斜めへのカットボールが放たれる。やや甘めながらも、変化後も高めへきてくれた。
高宮はこれをなにもせずに見送った。不自然なほど、それは無防備な見送り方だった。まるでなにもしませんよ、とでも言うように。さすがにこの場面でそれはおかしい、と森岡は不審に思った。せめてのバントの構えでの牽制や、わざと空振りするなどの手はいくらでもあるだろうに。
そうしなくても、今の黒沢はこの状況によって一手で崩れてしまいそうになっている。なにかしらやってもいい気がするのだが…。
森岡は今までの人生の中で初めて、なにもしない、というのが一番怖く感じた。
(それでも、追い込んだんだ)
ここで必ず振ってくる、いや、あるいは意表をついてのスリーバントがあるか。できればゲッツーが取りたい今、三振を取るための球は避けたい。しかし、ゴロは打たせたい。
そうすると、おのずと球は限られてくる。
(決め球は、ツーシームジャイロ、“方天画戟”…)
ここでは“方天画戟”が一番有効になる。森岡はそれを選択した。スリーバントになっても、なんとかゲッツーにできるよう、内野にも指示を出しておく。そして、“方天画戟”のサインを黒沢に送る。強い目でそれに頷いてくれた。今はそれが何より安心感をくれた。そして、黒沢がセットポジションに入る。
へその当たりでグラブを構え、背中越しのランナーを眼で睨む。そして、スッとすり足のようにして右足を踏み込ませた。
“方天画戟”は一応ストレート系の球種に入るも、投げ方は「抜き」が原則となる。よって、無駄な力が入らないセットポジションからの投球のほうが、その制球と変化の量は良くなる。
(――――よし!)
そして、森岡のサイン通りのコースへきた。ベース直前でギュッと急減速。そこから独特ともいえる不規則変化に移る、今回の変化はほぼ真下へ落ちる変化となった。コースは完璧、変化のキレも文句なし。これを打てば、最低でもゴロになる。
その時、高宮はバックスイングで力をいっぱいいっぱいに貯めていた。思いっきり上から叩く気だった。それでいい、森岡はそう思った。そうしてもらえればこっちの思惑通り、打球はゴロになってゲッツーが取れる。このピンチから脱することができる。
高宮はわずかな時間のバックスイングを終え、そこからバットをグッと一瞬だけためた。“方天画戟”の減速にタイミングを合わせるためだ。緩急を意識したリードではなかったため、十分にこの急減速に眼がついていっているようだった。
そしてそこからバットを振り下ろすようにして、ボール目がけて叩きつけ―――――
―――――なかった。
(―――――――え?)
ボールは勢いなく、ミットに入った。コールは文句なしのストライク。三振。
え、なんで、なぜ見送る。この場面で。疑問が絶え間なく森岡の頭に湧き出てくる。そんな森岡に構わず、高宮はくるっと回って打席から出ていった。まるで我関せずと言っているようにも見えた。
その立ち去り際、高宮は口を開いた。ゆっくりと、絞り出すように息を吸って、言葉をはいた。
「森岡、俺は、どうでもいいんだ」
「―――――なッ」
森岡はその一言でわかった。なぜ最後の球を追い込まれているにも関わらず、打てる球だったにも関わらず見送ったのか。
わざと見送ったのだ、高宮は。
ゲッツーの危険性があるからこそ、高宮は打たなかった。この打席、全てはバッテリーを考えさせ、消耗させるために高宮は打席に立っていた。たかがそんあんことのために。自分を捨て、この満塁の状況を次の月舘に預けたというのだ。
それほどまでに、月舘という打者は信頼されているのだ。
自分を次の打者のために捨てる打者と、自分を捨ててまで信頼される打者など、日本中探してもそうはいない。いったいこの2人はどんな信頼関係を築いているのだろうか。
森岡としては、歯ぎしりをせざるをえない。高校野球でこんな作戦があるのか!? 森岡のそんな思いは、しかしその本人しか知らず、そして共感できない。
黎学に、一番危ぶまれる状況が降り立つ。本当に意味でのショーが幕を開ける。
高宮から、自分を捨ててまでも信頼を持っていると信じられている打者が、打席に入る。
『1番、キャッチャー、月舘君。背番号、2』
右足を踏み込めば 第27話「相対的な立場」
センバツで優勝して以来、高宮は今までとは比べものにならないほどの練習に身を入れるようになった。
負けて努力するのはともかく、なぜ優勝して今まで以上に練習に励むようになったのか、周りは全く理解できなかった。高宮曰く、新しい目標ができた、だとか。
今までも周りから見れば十分すぎる努力を積み重ねてきた高宮だが、その練習はその今までを遥かに凌駕するものだった。いや、練習というにはあまりにも温い、それは例えるなら鍛練と表現した方がよかったかもしれない。
思えば、よく相方である月舘は付き合ってくれたものだ。毎日それが続いたためにミットをはめている左手は終日には真っ赤に腫れていたが、それでも次の日はしっかりと高宮に付き合ってくれた。
そしてセンバツから2か月ほどたった5月下旬、ついに高宮は球速、ノビ、球威の3要素を兼ね備えた完璧なストレートを投げることができた。軌道をまったく変えない、球史始まって以来間違いなく最高のストレートだった。これで、連覇を視野に入れることができた。県内では怖いものは黎学か栄倍のみ。その2つすらも、このストレートを持ってしてすればねじ伏せられる。
そしてそのストレートを手に入れて間もない日のとある居残り練習時だった。
いつものように月舘の手が悲鳴を上げるまで高宮は投げ込みを続けていた。ストレートからスライダー、カーブ、シュートの3つを含めた変化球まで。そしてその練習も終りに差し掛かろうとした時、その人は現れた。なんの前触れもなく、唐突に。
なんですか、と言う前にその人が先に口を開いた。
――――――やっと、継承する時がきた
その年齢不詳の背広姿の男は、露草十と名乗った。
第27話――Relative standpoint.
「ツユクサって、あのミゾットの?」
その名前を聞いて最初に口を開いたのは月舘だった。
ミゾットといえば大手スポーツメーカーだ。高宮もそのメーカーのグローブを使っている。いや、今野球に関わっている人の大半はミゾットの製品を使っているんじゃないだろうか。
「おや、私のことを存じているとは、光栄だね」
月舘の反応にその男は低い声で口を緩ませた。
それにしても、継承とは? 高宮はまずそのことを知りたかった。
ミゾットの社長ということは知らなかったものの、露草十という名前は聞き覚えがある。数十年前の甲子園の準々決勝で、あの赤月創投手と伝説的な投手戦を繰り広げた選手だ。記憶が正しければそうだったはずだ。別名、近畿の魔球王。今でも甲子園が始まると耳にするその異名は当時圧倒的な、魔球と形容されてもおかしくないボールを投じていた露草につけられた名だ。そんな偉大な御人が、なんでここに。
疑問を口にするより早く露草が高宮の方を向いた。
「高宮くん、といったか。私は君にしてほしいことが1つだけある」
「してほしい、ことですか」
なんか聞いてるこっちはすごく不安になる言葉だ。
「そうだ。実は君には私のある球を継承してほしいんだ。すごく個人的なお願いですまないが、おそらくこれは君にしかできない」
「なんで俺なんですか?」
「言っただろ、これは君にしか継承できない球なんだ」
「俺に、しか?」
「そうだ。君が継承するこの球はその持ち主に非常に高い実力が必要になっている」
その実力が俺にはあると。その言葉は、そして君にはその実力が備わっているという断言に上書きされた。
「私は今まで自分が投げてきたオリジナルの球をとある3人の継承してきた。ストレート、スライダー、カーブ。しかしまだ継承できていない球がある」
貸してごらん、と露草は高宮のグラブから薄汚れた硬球を取る。
「月舘くん、ちょっと胸に構えてくれ」
うむを言わず月舘はキャッチャーミットを胸に構えた。
「それじゃ、いくよ」
様になっているスーツ姿のまま、露草は振りかぶった。おい、まさかなんの肩慣らしをしないまま全力投球する気かこの人。
高宮は慌てて止めに入ろうとしたが、露草のフォームはすでに勢いがついた後だったので、高宮の行動は意味をなさない。せめて声だけでもと思ったが、それはボールがリリースされてからだった。
しかしそのボールは、肩を全く慣らさなかったにも関わらず、かなりの球速を持ったものだった。構えていた月舘は、そのコンマ1秒の間で一気に集中した。予想よりずっと速い球だったからだ。
そして月舘がそれを捕球しようとした、その瞬間――――
風のキレる擬音だけを残し、軌道が目の前で一気に変化した。
「な――――ッ!!?」
月舘は慌てて手を伸ばすも元々の球速が速く、そしてそのスピードをまったく落とさずに変化したボールに届くわけがなく、ミットの遥か先を通り抜け、後ろのネットにボールは力ない音を残し当たった。
そしてそのネットに当たってもボールの回転は解けない。シュルシュルという音を残し、回転だけでそこに留まる。
それは1秒も経たないうちに地面へポトリと落ちたが、高宮と月舘を絶句させるには十分だった。
「っと、さすがに肩が固まったままでの調子じゃこれが限界かな…、いや別に狙ったわけではないよ、肩が固まったって」
あはははっと笑う露草をそこに置き、高宮は真剣に今のボールの軌道を思い返した。
球速は初速から終速までほとんど変わらず、そしてベース直前で透明な壁に当たったようにして急に折れる。変化の軌道はシュートだが、高宮が今まで見てきたシュートの中でも今露草が投げたボールが一番凄かった。変化も、キレも、そして球速も、全てが限りなく完璧に近いシュートがこれだと、半ば本能的に察した。
自分もシュートを投げれるし、それが決め球の1つであるが、露草のこの球と比べたら赤子も同然だ。高宮のシュートは球速も速く変化も大きいが、キレが悪い。水準で考えればそこそこなんだろうが、他の球種と比べたら被打率が高い。あまり自信のないフォークとサークルチェンジと比べても、だ。
そして久しぶりに、他人の投げる球のほうが自分よりずっと凄いと思った。自分が一番だなんて思ってはいないが、それでも実力で張り合える投手など、本当に一握りだということは分かっている。そして、そんな相手がそう簡単に逢えるわけがないということも。
だが、こんな形で目の前に出てくるなんて想像できるわけがなかった。
「さて、高宮くん。今見せた球を君に投げてもらいたいんだ」
露草の言葉で高宮は現実に戻された。
「僕のオリジナルの中ではこの『フェスターヴァ』が1番投げるのが難しい。他3つの球は10年くらいほど前に継承できたが、これだけは私が見る限り投げれそうな投手がいなかった。だから継承できなかった」
悔しそうに、しかしどこか楽しそうに露草は言葉を繋ぐ。
「水準をはるかに凌ぐ球速、そしてシュートを投げれる投手は高校野球ではそうは見つからない。そして柔らかい肘を持ち、故障しにくいフォームの投手もそういない。だがやっとその2つの要素を兼ね備え持つ投手を見つけた」
びっと指で高宮を指差し、
「それが、君だ」
もうなぜ、という言葉は出ない。ただ露草の言葉を待ってるしかできなかた。
「おそらくプロでも投げれる投手は限られるだろうストレートを高校生ながら持ち、そしてキレこそそれほどではないが球速と変化の大きさは高校生レベルの比ではないシュートを君は投げれる。そしてこれから君に教える超高速シュート『フェスターヴァ』はその2つを組み合わせたものといってもいい」
いいかい高宮くん、とどこかの大学教授のように見えない棒を振ってる仕草をしながら露草は適当に足を歩ませる。
「シュートとは本来肘に大きな負担をかけ、多投は避けるべき球種だ。だがしかし君の肘の柔らかさとシュートを投げるときの使い方を見る限り、故障の確率は他の投手と比べて低い。無意識のうちにやっていたことだろうが、これはとても素晴らしいことだ。『フェスターヴァ』を投げるにあたってこの要素は重要だ」
「そんなに凄いことやってたんですか俺は」
「そうだね。シュートの投げすぎで腕が歪曲してしまった投手もいるくらいだから、キミの肘はどれだけ恵まれているかわかるだろう。親と自分自身の才能に感謝するがいい」
「はぁ」
さて、と短い前置きを据えてから露草は上のスーツをぬいでYシャツ姿になる。手頃なベンチを見つけると、その背もたれに脱いだスーツを掛けた。
「それじゃ、始めようとするか」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
「え、なにをでしょうか」
「決まってるだろう、『フェスターヴァ』の練習だよ」
「今からですか?」
「そうだよ」
「時間と俺の疲労を考えましたか?」
「…時間は8時半か。2時間で君が『フェスターヴァ』を投げてくれれば私も終電には間に合う」
「……」
はなっから高宮の都合は無視らしい。
「まぁ、どっちにしろこれから私から君に会いに来れる機会は少ない。できれば今日のうちにやっておいたほうがいいだろう。君から私に会いに来るというのも無理だろうしね」
そういえば大手企業の社長だったんだこの人と、高宮は今更ながらそれに気づいた。見れば、月舘も腰を降ろしている。その表情から早くさっきの球を俺に投げてくれと言っているようだった。
高宮は盛大に1つ、ため息を出す。もう、なるようになれ、としか言いようがない。
「それじゃ、任されることにします」
元々選択肢の余地はなかった気もするが。
「うん、いい返事だよグリーン」
グリーン?
「なんですか、そのグリーンって」
淡々とした口調で高宮が尋ねると、
「ほら、戦隊物の特撮って主要ヒーローが5人だろ?それでそのヒーローの4番目が大体グリーンなわけ。私のオリジナルを継承するのは君が4人目、だからグリーンってわけさ」
あくまであっさりと笑いながら露草はそう言った。だからグリーン、って言われても。
「最近は4番目はブラックなんじゃないでしょうか」
そんなぼそっとした呟きは露草に聞こえたはずなのだが、「さぁ早速いくよ」と言った掛け声に無視された。せめてツッコミぐらい、と思ったが、露草が最初から熱心に握りなどを教えてくれたので、その説明に集中することにした。
まるで一瞬の悪夢。足が宙に浮いている感覚だった。
今自分が見た、体験した153キロのシュート。それは決して、高校野球であっていいものではない。
テレビでは1回だけ152キロのシュートを見たことがあった。正直、自分にはこんなもの打てないって思った。ゲームでは簡単に作れる(コツは必須だが)今のシュートのようにみたいな魔球じみたものだが、いざリアルで対峙するとこんなにも恐怖を感じるものはない。
それにその球速だけではない。変化の大きさとボールのキレが半端ではなかった。打者として黒沢の高速スライダーを相手にしたことはある。右投手のシュートの軌道はそれと同じだが、今のシュートはとても同じとは思えなかった。球速、キレが違いすぎる。なにより、変化するまでの軌道が限りなくストレートに近い。黒沢の高速スライダーは最初の軌道で「あぁこれはスライダーだな」との見切りがつくが、今のシュートは見極めができない。ストレートの軌道を保ったまま、ベース直前でいきなり変化する。
ここまでキレのいい変化球を薙多は体験したことがない上に、見たことがなかった。
頭の中には先ほどから「打てない」という単語がチラつく。夏場に限って元気な羽虫にように、それは頭の中を飛び回る。
(ウゼェ、ちっくしょうめ……)
必死になってそのネガティブな思考を追い払った。こんなことを思っていては打てる球も打てなくなる。頭の中を切り返し、再度高宮に集中する。
丁度ゆっくりと足を上げたところだった。打てる、俺はあいつを打てる。そうだ。打てない球なんて、ない――――
腕の振りが一瞬で視界に縦の線を引く。同時に、真っ直ぐの尾を引いた光が見えた。すぐにそれに反応し、連動的な動きでバットを振りだす。がしかし、先ほどのシュートの残像が、一瞬、頭の中をよぎる。
(――――ッ!)
そしてそのストレートを空振った。おそらく今のは本気のほうだろう。球速はともかく、ノビが段違いだった。易々とは打てない、しかし打てないとも思えない。それに、見えはしていた。だからスイングしたのだ。
それでも、やはりまださっきの感じが頭から拭い切れていなかった。スイングに入ったその刹那に、高速シュートの残像がイメージに飛び込み、集中の邪魔をしたのだ。それだけで薙多の技術が格段に削ぎ落ち、結果ストレートを空ぶった。
高速シュートの印象が強すぎて、これでは他の球種への印象も上書きされたかもしれない。特にストレートを相手にした場合のイメージの重なりが強い。これでは瞬刻の間における集中が乱され、満足なスイングができたものではない。
くそ、と小さく毒づいた。仕切りなおそうとしても、上手くいかない。くそ、くそ、くそ。悔しさがにじみ出てくる。
こんな気持ちを背負っていては試合に勝てるわけがない。敵は翔氏、邪念は意味と言葉そのままに、邪魔なだけ。
そこで、なんとなく思った。
今まで翔氏の相手をしてきた奴らは、今の自分みたいな気持だったから翔氏に勝てなかったんじゃないのか。
野球はメンタル面だけで試合を左右することがある。ネガティブな気持ちを背負っていては勝てる試合も勝てない。驕りの気持ちを持っていては弱者相手に膝を屈することもある。最初から勝てるという気持ちを持って、油断なく構えなければどんな試合も勝てないのだ。
気持ちが確立を左右する。それが、勝負事における運と呼ばれる要素の1つ。
そうだ、もっと自信を持て。今まで以上に自分を奮い立たせることができる自信を。高宮をその眼で見る。奴を倒さなくてはいけない。このチャンスを生かさねばならない。その気持ちは半ば使命に近い。
完全にネガティブな心は無くなった。あとにあるのは、なんとしてもこのチャンスで得点するという意気込みだけ。悪く言えばプレッシャーだが、それは目の前の出来事に集中してる証拠。
ゆっくりとバットを回してから薙多は構えた。そしてそれを上下に揺らして高宮の投球を待つ。
高宮はゆっくり数秒、ランナーの動きを気にしていた。そしてまたそこからゆっくりと投球に入った。
薙多の集中が最大まで研ぎ澄まされる瞬間に丁度ボールがリリースされた。
おそらく3球勝負、そう踏んでいた薙多は思い切り踏み込んでそれを迎え打つ―――――
――――いや、避ける。薙多の体は反射に近い動きでボールの軌道を避けた。
答えは簡単、顔面付近にボールがきたからだ。厳密にいえば顎下、多分避けなくても当たらないコースだろうが、それでも人間として危機を察したので薙多の体は思考が回る前に体が勝手にその行動を行った。
150キロの球を避けるという反射的行動ができただけでそれはすごいことだ。動体視力がいいのか、それとも危機察知能力が周りよりずっといいのだろうか。
だが、不運なことにも。その白球の軌道は、薙多の予測をずっと上回っていた。
いきなり、ボールの軌道が変化した。やはりというべきか、球速をまったく落とさず、かなりキレて大きな変化を見せた。まるで無様というように、薙多のすぐ眼前で。
馬鹿な、と思った頃には、ボールはインハイギリギリのコースを掠めてストライクゾーンを通り月舘のミットに入っていた。
「ストライクーッく、バッターアウッ!!!」
大きく、機械的なコールが宣告された。
愕然とした薙多は、数秒その場に立ち尽くし、審判に声をかけられてからゆっくりと足をベンチに向けて足を歩めた。
まるで、夢遊病者のような足取りだった。ただ、そんな足取りでも、口の中の奥歯はギリッと音を立てていた。
(……クソッ)
完全な敗北、前の試合で嵐崎から三振をくらった時の数倍は悔しかった。
「……どうしたんだ、お前」
そこで、どっしりとした重い声をかけられた。打席に向かう黒城の声だとわかったのは、顔を見てからだった。声で気付かなかったのは、よほど興奮してたからなのだろう。
「どうしたって、なにが」
「……凄い顔してる」
「え、マジ?」
手で顔を触ってみる、とそこで自分の手がバッティンググローブをつけていることを思い出し、慌ててそれを外す。再度顔を触ると、滲み出ている汗があることしかわからない。そりゃそうだ、鏡でもないと今自分がどんな顔してるのか分かるわけがない。
しょうがないから自分の顔を客観的に見れる奴にどんな顔してるのか聞いてみるしかない。
「おい仁、今俺ってどんな顔して―――――って、あれ?」
振り向けば、もう黒城は打席の前で素振りをしていた。あれだけ言っておいてもう行ってやがる。
ため息1つ吐くと、薙多は変わらない足取りでベンチに入っていった。
すっと大きい神主打法で黒城は打席に立った。鋭い眼光はすでにマウンドの高宮しか見ていない。
集中力はすでに神経を焼き切るくらいまでいってるんじゃないかというくらいに高められている。普段の弱気がちな気持ちなど、どこにもない。ただ、高宮を打つのみ。それだけしか思ってない。
思わずバットを握る手が熱くなる。ギシ、ギシ、といった音まで聞こえてきそうなほどだ。
しかし巨大な体躯が放つ威圧を物ともせず、高宮はテンポ良く黒城への初球を放つ。まるでアーバレスト(大石弓)の如く、凄まじい剛球を投じた。
外角、コースはやや甘い。黒城は迷わずスイングし、バットでボールを捉えようとする。
が、しかし―――
「ットライーック!!」
審判の右腕が上がった。
完璧なまでの振り遅れだった。スイングはともかく、ボールのノビに眼が着いて行ってないない感じがする。
一旦打席を外し、素振りをする。
(……もう少し、タイミングは早くか)
今のストレートを頭に浮かべ、2,3回素振りをする。感覚を掴み、よしと意気込んで黒城は打席に入った。
そして1秒もない時間で集中力を極限に達せさせる。高宮は黒城の集中力が高まったのを察すると、それを切らすように3塁ランナーへ刺せるわけがない、キャッチボール程度のボールで牽制する。
2,3回そうすれば、いい加減黒城も早くしろという言葉が顔に出てきていた。本人は知らないだろうが、その顔はしかめっ面だ。思わず高宮はこの打者が怖いと思い心が萎縮した。
だが、その怖さは打たれるというものではない。そう割り切って2球目を投げる。
黒城のバットは放たれた鋭い直球を捉える。打球音が耳に届くより速く、そして打たれたと思うより速く、眼が動いた。一瞬の白い残像を追ってレフト方向を向く。
本気のストレートだったが完璧に芯で打たれた。予想以上に黒城のスイングは速かった。
そのおかげでこの打球は徐々に逸れていき、最終的にはラインを割ってスタンドへ入った。
ただでさえ状況は危ないというのに、芯で捉えたことを意味する甲高い金属音に少し肝を冷やした高宮だったが、すぐにカウントを稼げたと割り切る。
それにしても、今の球が打たれるとは正直思わなかった。薙多でもそうそう打てなかったこのストレートが、2球目で捉えられた。巧打力はないと聞いていたが、そのガタイと相まってのパワーと一緒に予想以上に兼ね備えているらしい。
なら、その技術を封じるまで。力で、技術で、総力で、ねじ伏せるだけだ。
追い込んでから2球内外と変化球を散らす。さすがに手は出してこなかった。
しかしこれで中途半端な配球という意識が植え付けられたはずだ。ここまでの流れと配球、そしてカウントはバッテリーに味方している。
そして高宮はボールを掴んで、指を規則正しい握りで添える。その握りは『フェスターヴァ』。150キロを超す超高速シュート。
ここで投げれば、確実に抑えられる。このピンチを無失点で切り抜けられる。
いまだ肘には疲労はない。まだ軽い、動かせる。セットポジションに入る。ワインドアップから投げるよりは威力は僅かに落ちるが、その分コントロールは上がる。この場面ではむしろそのほうがいい。『フェスターヴァ』を投げてもそれが甘くなれば打たれる確率は上がるからだ。月舘のリード通りにするなら、ここは制球を重視すべきだ。
高宮は一息つく。これを投げるには相応の集中が必要だ。目を閉じ、自分の最大限の力を発揮するように集中する。
―――本人は知らないが、高宮もまたゾーンを使えたのだ
高められた集中は黒城の比ではない。出そうと思えば常に自分の限界の力をほぼ発揮できる、それが高宮の持つゾーンだった。限界、つまりそれは自分の持てる全ての力の最のこと。
150キロが限界なら150キロを出せ、カーブを投げようと思えば自分の投げれる最高のカーブを投げれる。常に大きい力を出せるという分だけ、スタミナの消費も速い。投手とは本来常に持てる力を最大限に使えないからこそスタミナが減りにくいのだ。
出そうと思えば限界を発揮できる分だけ、高宮のスタミナの減り方は他の投手よりもずっと速い。しかし投手としての能力が圧倒的である高宮は、それさえも些細なことでしか思っていない。
投げてるんだからスタミナは減るだろう。そういうもんだろう、普通は。この程度でしか思ってない。
それは普通のことではないというのに、だ。
そして高宮はその聖域の力は本気のストレートを投げる際と『フェスターヴァ』を投げる際にしか使わない。だからこそその2つが他の球種に比べてより凄まじく見える。
聖域を相手には、黒城も相手にはならない。ただ、自分の打席が終わるのを自分で見届けるしかないのだ。
高宮は目を開け、そしてゆっくりと時間を8秒使ってから投球に入った。
外角低めに外れる、そう思った。
ここまで2球使って2−2のカウントに整えられたが、ここで外してフルカウントにする意味はわからなかった。そうなると、ただのコントロールミスか。
黒城はその神主の構えをまったく動じさせず、ボールを見送る体勢に入った。この軌道はストレート。曲がるはずはない。高宮はシュートを投げれたが、まさかこの軌道から曲がることはないだろう。それに、曲がるにしても遅すぎる。もうボールはベース直前まできているのだ。
黒城は余裕を持ってその「ストレート」を見送ろうとして、
愕然とした。
(……なッ!!?)
思考は素早く脳内を巡りかけたが、体はまったく動かなかった。
その「ストレート」の軌道はそのベース手前で急激に変化、内側へ切れ込んできた。その変化は、紛れもなくシュート。しかしこれほどまでに速く、そしてまったく失速せず、加え凄まじいキレを持つシュートを、いや変化球を黒城は見たことがなかった。
そんな初見で会うにしては次元を外れている代物を相手にしろと、さすがに無理があるというものだ。さらに既に黒城は見送りの体勢に入っていた。そこから反応して打つことなどできるわけがなく、むしろそっちのほうが無理というものだった。
黒城はただ、それを当初の考えと同じように見送ることしかできなかった。
切れ込んできたそのシュートの変化をしたストレートは、外角低め、高さもコースもギリギリ。ストライクゾーンの四隅の一角を掠め取るようにしてミットに収まった。
審判によってはこれをボールと判断するかもしれない。事実、本来外れているコースから外に決まる変化球は判定が難しい。手が出なかった黒城はその判定に期待した。せめて、ボールであってくれ。そう思った。
だが、審判の右腕は勢いよく上がった。
黒城は悔しそうにうな垂れた。まるでその表情を誰にも見られたくないように、がっくりと下を向いた。
試合は後半戦に入る。いまだ試合はどちらにも傾いていない。傾いたように見えても、その傾きは両チームのエースがまた平行に戻す。
そしてこの試合の波乱を呼ぶかのように、曇っていた空から、雨粒が降り始めた。
勢いはそれほどなかったが、大粒であった水の球は、遠慮なくグラウンドに黒い染みを作っていく。
天気の行方も、試合の行方も、まるでその黒い染みと同じくらいの黒さにまみれて、まったく先が見えなかった。
右足を踏み込めば 第26話「目の前を穿つもの」
それは、全てを抉り通す
第26話――Festarva.
月舘はえらく不機嫌だった。
ベンチに戻ってくるなり、顔を物凄いしかめっ面にし、不満を露わにする声を幾度となく出す。
「あーもぅ、イッテェな畜生がぁ!!」
物に当たらないだけいいだろうが、この空気の中でそんなことを堂々と口に出されては、嫌でも空気がもっと悪くなる。
それでも、やはり吹っ飛ばされた時に胴体を強く打ったおかげか、その顔には時節苦悶が浮かんでくる。あれほど強く地面に落ちたのだ、イラつくほどの痛みがあってもなんの不思議もない。
しかし、こういう場で、悪い空気の流れている時にこういう汚い言葉を口から吐くのは良くないことだ。そこで、月舘と一緒に戻ってきた東儀が自分のグラブで月舘の頭を軽く叩く。
「――ッテ…」
「そろそろ静かにしないか、元治くん」
「んだってよぉ……」
「だってもそっともない。それにあのプレーは君が森岡くんの後ろに回り込んでいれば確実にホームを触れただろう?」
「いや、だってあんな無防備な格好だったら誰だってイケると思うだろうよ」
「僕は思わない」
東儀ははっきりと言い切った。いつになくまじめで、いつになく引き締まった顔で。月舘は知っている。これは、東儀という人間の顔ではなく、翔氏高校主将としての顔だ、と。
強い意志のこもった声、そして突き刺すような眼光、久しぶりに見た、東儀の主将としての姿がそこにあった。
月舘は苦虫を噛むような顔で、
「そりゃ、お前は体当たりなんてことしないからそう言えるだろうけどさ…」
と、ぼそりと言った。
「それでも、この試合の1点の重みを知ってるなら、あんなプレーは選択しないと思うよ、普通は」
「んぐ……」
月舘は目に見えて小さくなる。反省した、と見ていいのだろうか。東儀はそう見たようで、その顔を硬い表情から一転、柔らかな笑顔に変える。
「わかったなら、さぁ、早くグラウンドに行こう。それに君は高宮くんのことを待たせているんだろ? さ、急いで急いで」
そんな柔らかな笑みで言われたら嫌でも急いでしまう。
月舘は渋々ながらも、急いで防具を身につける。
それにしても、中々気持ちが切り替えられない。さきほどあれだけ吹っ飛ばされたおかげだろうか、まだ心の中がイラついている。
「……クソッ」
小さくそう吐き捨てながら、防具を身につけた月舘はグラウンドへ飛び出した。
次の打席で奴らに思い知らせてやる、そう決心しながら。
そしてマウンド上、投球練習を終えた高宮とたった今到着した月舘が集う。
この回から2順目に入る。そろそろ、いや間違いなく高宮を捉え始めてくるころだ。
特に3番以降は長打を警戒した上での組み立てを前提で、まず次に繋げさせないことも考えなくてはいけないだろう。
そのため、この回からはより慎重にいくという確認と、そしてこの先のリードについてで2人はこの区切りいい時に相談した。
「とりあえず、浩介はどうしたい?」
イライラをまだ抑えきれていないのか、微妙に眉間にしわを寄せたまま月舘は尋ねる。
高宮がちらっと目をやれば、バットを振る黎学の1,2,3番が目に入る。
黎学打線に穴などない。たとえ1,2番を切って取ったとしても、次に控える薙多からはたとえ自分の持ち球全てを駆使したとしても、絶対に抑え切れるといった断言はできない。
だからこそ、この回からは…、
「元治、あの球を投げよう」
それに豆鉄砲を食らったように、月舘は驚いた。
「…え、それマジで言ってんの?」
冗談ではないとわかっていても、しかし聞いておかないといけない言葉だった。
「あぁ、俺は本気で今の言葉を言った。元治、この回から『フェスターヴァ』を投げるぞ」
やや長い漆黒の髪の下にあるその眼は、本気だった。
「この回から投げておけば、後々この球を意識せずにはいられない。そうなると必然的に俺たちの組み立ては楽になる。だから俺は、この絶対的な威力を持つ『フェスターヴァ』を投げる」
双鋒のそれに、強い意思が宿っているのは誰が見ても明らかだった。その眼に対しては、やはり月舘も本気でそれを受け止めなければいけない。
高宮の、覚悟を。
「後半、絶対潰れないという覚悟があるんだな」
やや鬼気せまるほどの重い月舘の声に、負けじと高宮は「ある」と言い切った。
これだけの本気を持っている人を、だが断るなどという言葉などを持ってその意思を砕くことはできない。
月舘はゆっくりと息をはき、
「わかった、投げるんだな。だったら、『フェスターヴァ』を投げるタイミングは俺が決める。そして投げる打者もだ。いいな?」
高宮は神妙に頷いて、「構わない」と言った。その反応を見た月舘は、そして、と言葉を加え、
「負担を減らすために、こっから先は出来るだけ本気のストレートは投げないようにする。このストレートと『フェスターヴァ』を連投してちゃ、お前の指と肘は間違いなくすぐ切れる。これもいいか?」
「そのストレート、クリーンナップには使うんだろうな」
「少しな。そうでもないと、『フェスターヴァ』は見切られる可能性もある。特に薙多とか森岡あたりにな」
「…わかった、それも認める」
そのかわり、と高宮はそれを強調して言い、
「本気で俺をリードしろよ」
と、これもまた強い意志のこもった目、そして言葉だった。
なにを当たり前のことを、と月舘は思ったが、これも『フェスターヴァ』を投げる上での覚悟であることを知ると、なんだか高宮のことを恨めしく思った。
いや、恨めしくというより、ただの嫉妬だ。あれほどの球を投げられて羨ましく思われない投手なんて、きっと、いないだろうから。
月舘はそう思うと、憎たらしい笑みを顔に浮かべて高宮に言い放った。
「浩介、お前俺のリードがいつまでも3流だと思うなよ?」
『4回の裏、黎京学院高校の攻撃は、1番、ファースト、池原くん。背番号、3』
ぐっと左打席に入るのは、黎学屈指の出塁率を誇る打者。その巧打力と俊足は舐めてはいけない。
いつもはバットを長く持っている池原だが、この打席はバットを短く握って打席に立つ。
(こうでもしなきゃ、打てそうにないしねぇー)
塁に出るためなら手段は問わない。1番打者としての使命が池原にそうさせた。
変なプライドなんか持っていたら絶対に勝てない。手段を選ばず、泥を被ってでも塁に出る覚悟を持たないと、高宮を打てない。
そう、さきほどの森岡のように、捨て身に近い行為をしないと、翔氏には勝てない。
間違いなく、森岡のプレーが自分たちに勇気をくれた。今なら、今からなら、高宮を打てる。そんな気が、池原はしていた。
(――――来いッ)
半ば力むように池原はバットを握りしめる。
そして高宮が振りかぶる。ゆっくりとしたフォームから、池原の2打席目への初球が放たれる。
空気を裂く音を残し、洗礼されたストレートが真ん中高めへ決まる。
今のはきっと手加減したほうのストレートだろうが、やはり威力は群を抜いている。
しかし威力は抜群でも、池原にはそれが見えていた。次がきたら、きっと打てる。そんな自信が湧き出てくる。
しかし、月舘のうまい具合に散らす3流のやるリードが、それをさせない。
2球目、まるで2階から落ちてくるようなカーブ。球速とキレがカーブという水準を逸脱しており、それはもはや斜めへのスライダーに見えてもおかしくない。
池原はそのカーブを見送った。変化がありすぎて低くなると判断した。
結果それは正しく、カーブはバウンドして月舘は胴体を守るプロテクターにめり込ませる形でそれを捕球させた。
さきほどはスライダーを打ちにいっただけに、池原は高宮の変化球は見えている。たとえそれがスライダーのように130キロ中盤で曲がるものでも、今のカーブのように基本的やや速く、加えかなりの高低差がつくものでも、しっかりと池原は見極めることができている。
バッテリーとしては、ここでどう出るかが問題となる。
池原は巧打力もあるだけに、やすやすとストレートも投げにくい。しかしそれでも、変化球よりは安全性のあるストレートのほうがいいと判断したのか、高宮はストレートを投じる。
コースはアウトコース高め一杯。池原は短いバットで精一杯カットをしようとするが、ストレートはさらに伸び、バットの上をいく。
(うっそ、まだ下なのかよ――――っ!)
驚く池原をよそに、ミットは高らかに音を出す。
「ットライーーック!!」
これで2−1。バッテリー優位なカウントになった。
こうなると池原はどれに的を絞ればいいのかわからない。加え相手は高宮だ。どの状況からでも自分の思う通りのボールを指示通りのコースへ投げ込める、完全無欠の投手。
投手に穴も隙もない、だったら覚悟を決めていくしかない。
(こうなったら、やつの決め球でもっとも多く使われるカーブにヤマを張ってやる…!)
曲がる、というにはあまりにもキレている高宮のカーブだが、それでも高宮の持つ球種の中では遅い部類に入る球ではあるので、変化に合わせて打てばヒットになる確率は高い。
池原は自分の高いミート力を信じ、それを待つ。他の球が来たらごめんなさいだ。
腹を括る。深く息をついて高宮を臨んだ。
そして高宮の投じた4球目、それは真ん中高めから滑り落ちるようなカーブ。
(狙い――――通り!!)
ぐっとバックスイングし、ためにためた力をバットに乗せ、ボールを斜めから上手く叩く。
火を噴くような音を残し、打球は高宮の右の足元へ奔る。
「ちッ!」
とっさにグラブを出すが打球はその先をすり抜ける。ショートの渡辺が飛びつくも、打球はそれを上回る速さだったため届かず。センター前ヒットとなった。
池原はオーバーランし、打球を確認すると小さくガッツポーズ。初ヒットとなった今のバッティングに、黎学のベンチとスタンドは沸きに沸く。
向こうの月舘のヒットよりもずっと綺麗な形であるだけに、流れも良くなった。
「よし、行くか!!」
そしてそう声を上げ、今日初めて庄田山監督が腰を浮かす。その指揮官の動きだけで、こっから試合は動くのだと森岡は感じた。
盗塁か、送りバントか、それともヒットエンドランか。甘寺の実力、そして池原の足を踏まえるなら策はいくつでもある。
そう思ってるうちに庄田山監督が両手を動かす。複雑怪奇なその動きはとあるサインを指しており、森岡はついつい口を笑みの形にしてしまった。
(これは面白くなるぞ)
3人は同時のタイミングでヘルメットのつばを掴んでそのサインに対しOKのサイン。高宮はそれを気にしない様子で、やってくるならやってこいと毅然とした表情でセットポジションに入る。
そしてほとんどセットに入る前と変わらないゆったりとしたフォームで甘寺への初球を投じる。
まず1球外にウエストした。池原の足を警戒してか。
月舘は捕手として未熟なのはインサイドワークだけではなく、基本的な動作自体がだ。バント処理にしても、ブロックにしても、そして盗塁刺殺の送球もだ。本職の外野みたいな送球みたいに、とはいかないため、ウエストでもしないとうまい具合な送球が投げられない。
だからこそこうやってウエストしたのだが、しかし池原は足を動かさなかった。予測が外れて舌打ちをする。自分の弱点をカバーするにはカウントを悪くしないといけない、だがそれが仇となることもある。事実、今までの試合で幾多もそのせいでピンチになってきた。最後の大会、ここでミスを犯すわけにはいかない。
月舘は慎重に考え、2球目もウエストすることにした。なんとなくだが、2球目に盗塁を仕掛けてきそうな感じがしたから。いわば第六感に頼ったことになる。高宮はほんの一瞬だけ怪訝な顔をするも、一応のように頷いた。信じてくれ、とやや腰を浮かせて月舘は思う。
そして高宮が目で池原に牽制を入れてから数拍だけ間を置いてからモーションに入った。それとほぼ同時に池原がスタートを切る。
「きたかッ!」
瞬間的にいける、刺せると判断した。高めへのウエストのおかげか、体勢は素早く送球に入りやすいものとなっている。肩に自信のあるほうではないが、それでも並よりは上と思っている。伊達に外野手も兼ねているわけではない。
バットが絶対届かない位置で捕球すると、月舘はクイックで2塁へ送球。感覚で言えば完璧に近いものを感じた。速さもコースもベストと言って差し支えないものだった。
あとは池原の足だが……、
池原はやや遠い位置から2塁へ向けて頭から滑り込んだ。真正面ではなく、やや回り込むようにして体をわずかばかり捻る。そしてそれに追いすがるようにしてボールの入ったグラブが池原の胴体へきた。
池原はそれよりも先にベースに触るよう、懸命に腕を伸ばす。が、いきなり腕の長さが伸びるわけでもなく。しかしそれでもその心意気でも届かせようと、池原は精一杯伸びた。
そして、その手がベースに触るのと、グラブが胴体へ無駄に強く当てられたのは、ほぼ同時だった。
同時、というのはそれは客観的に見てだった。当事者の判断、つまり真実のタイミングは分からない。ただの周りの判断は、今のプレーは同時だ、ただそれだけ。だがその客観的、という視線は審判も含まれており、こういう場合のジャッジ、つまりタイミングが同時という場合はランナーがセーフというのが適用される。
つまり、
審判の両手は大きく横に開かれた。
「セェェーーフ!!!」
先ほどのヒットの時よりもずっと大きな歓声が池原を包んだ。その本人はよっしゃあと叫んでベースを1発殴った。タッチした東儀はあくまで平静の表情をしているが、今のはどっちともとっていいタイミングだっただけに、内心ではバツの悪そうな顔をしているに違いない。
これで無視2塁、黎学にとっては大チャンスだ。ここからどういった展開でこのチャンスをものにしていくかが鍵となる。このチャンスを逃せばもう残りはないと考えた方がいい。あの高宮がそう易々とチャンスをくれるわけがない。だからなんとしても、このチャンスを生かせねばならない。
そして再び庄田山監督がサインを出した。
腕を組んで試合を静かに見ていた相川が唐突に近いタイミングで口を開く。
「佐々木、お前はこの先の展開、どうなると思う?」
え、と聞き返すよりまず、試合展開がイメージとして浮かんだ。
甘寺がバントで池原を送って一死3塁。そして打者が薙多で……、ここまでしか浮かばない。
あの薙多なら最低の外野フライとはいわずヒットや長打も十分期待できる。それが相手が高宮としてもだ。事実、さきほどの打席もほとんど長打になってもおかしくない打球を放っている。
だが、あの高宮が相手となると、その考えも甘いと気づく。あの本気のストレートをフルに使って攻めてこられたなら、おそらく薙多も苦戦は免れない。いや、苦戦どころか案外3球ストライクであっさり三振、そうなって終わるかもしれない。
だからこそここは、相川の質問に、
「わかりません」
と答えるのが精一杯の回答だった。
相川はそうか、と呟くと、打席の甘寺へ視線を向けた。
気持のいい音が聞こえてきた。球威の詰まったストレートがミットに収まるその音は、やはりそれを体験してこそその気持ちよさが分かると相川は思っている。もし自分が捕手だったら、あの高宮のボールを直で受けてみたい。不意にそう思った。
見れば、いつの間にか自分の左手をせわしく動かしていた。疼いているんだろうか。
そんなことを思っているうち、今度は金属音が聞こえてきた。目を向けると、打球はふらふらっと1塁側のスタンドへ入っていった。
これで2−2。実力的にもカウント的にも甘寺が不利だ。
いや、この試合自体が高宮率いる翔氏の優勢から始まったといっても過言ではないのだろう。
でも、それでも相川はこの試合はどちらに傾いてもおかしくないと思っていた。
かたや、世代を代表する選手を4人も率い、センバツでも優勝した超強豪校。かたや、プロへ選手を毎年のように輩出することで有名であり、今年も怪物と呼ばれる選手を揃えている通称アカデミー。どちらもけた外れの選手、そして実力を要する高校であり、そしてその戦いの結果は決して総評で測れるものではない。
まさしく、この決勝はギガントマキア(神と怪物の決戦)といっても差支えない。
「でも、なんで黎学の監督は甘寺にバントをさせないんでしょうか」
唐突に近い質問は、やはりというか佐々木からだった。
「盗塁させるまではともかく、そっから先はいくらチャンスだといってももっと手堅くいくべきだと思いますけど」
レンズが光を反射しているためその目は伺えないが、その黒い額縁眼鏡の奥はどんな目をしてるんだろうか。
「つまり、お前はここで送って一死3塁で薙多から始まるクリーンナップに期待した方がいいというのか?」
「お前は、というか、それが一般論だと思います」
淡々と語る佐々木に、相川は反応しない。それを察したか、佐々木はさらに続ける。
「元々バントは得意中の得意で、しかし打率自体はそれほどよくない甘寺に、あの高宮からヒットを打てってのはないと思います。最低進塁打といってもその器用さはあの高宮にねじ伏せられると思います」
「それが、お前の意見か」
そう言うと、佐々木は躊躇なくはっきりと頷いて見せた。相川はわざとらしく息をついて、その息に対し怪訝な表情を見せた佐々木に質問した。
「お前、甘寺の打率がいくつだか分かっているのか?」
「ええと…ちょっと待ってください」
そう言って佐々木は持ってきた大学ノートをペラペラとめくる。
「あった。甘寺の打率は…3割3分3厘。3打席に1回の割合でヒットを打ってる計算になりますね。それで、これがなにか」
「お前はそれを見ても甘寺は高宮を打てないって思うのか?」
「まぁ、はい。3割3分っていっても、高校野球じゃ平均くらいですし……」
「お前だったら3割もいかないと思うぞ俺は」
「……はい?」
怪訝な表情は変な顔に変わった。
相川はそれに構わず続ける。まるで言い聞かせるように。
「黎学がここまで相手にしてきた高校を把握してるのかお前は?4回戦は県内では古豪として有名な学邦白河。準々決勝は春の東北の準優勝校誡成大付属、エースの氷室はお前でも知ってるだろう。140キロ中盤のストレートと全国でも3本の指に入るコントロールを自慢とする投手だ。間違いなく全国でも戦える高校だ。そして準決勝、翔氏と打撃では五分を張る郡山中央工業を投と打で圧倒した小野平汰分高校を相手にしている。そこのエースは145キロのストレートとプロでも通用するツーシームを操り、黎学を5回まで完璧に抑え込んでたそうだ。そんな高校を相手にしてきて打率を3割超せる自体が俺は凄いと思うぞ」
お前はどう思う?そう訊ねると、佐々木は唖然とした表情をしていた。
「? どうしたお前」
相川は不信になって腫れ物に触るように聞いた。そこでやっと佐々木は夢から覚めたようにしてはっと目をパチクリさせた。
「なにやってんだお前」
「いや、あまりにも相川さんが凄いんで…」
「高校野球での情報戦は当たり前だと言っただろう」
「それでも他県の高校の情報をそこまで頭に詰め込んでるなんて思ってませんでした。通な高校野球ファンでもそこまではしませんよ、普通」
「普通じゃなくて悪かったな」
仏頂面にしわを付け足したような顔で相川はぶっきらぼうにそう言った。それを見て佐々木は慌てて言い直す。
「いや、いい意味でです、いい意味で! ただ単に相川さんは凄いですって言っただけです!!」
「わかったわかった、とりあえず座れ」
そう言われて気づいた。いつの間にか腰を浮かして中腰よりちょっと浮いた体勢になっていた。
フォローに必要以上の熱を入れてしまったらしい。なんであんな短時間なフォローにここまで熱くなったんだろう、と自分自身に疑問を持ったが、それはそれで今は流しておくことにした。
それよりも、だ。
「黎学の打線ってデータで見れば打率は3割を超えています。相川さんが今言った相手を考えると、これってかなり凄いんじゃ」
「あぁ、凄い」
佐々木の言葉を途中で区切って、相川ははっきりとそう言った。他校に対しては滅多に使うことにない、凄い、という言葉を。
「それに、今の甘寺を見ろ。ここまで三振など1つしかない。相手を考えれば、それだけで高い打撃技術が垣間見れる。そしてさっきの甘寺の打席を思い返せ」
そう言われて短い回想に入る。……が、甘寺の打席を思い出しても、ただの腰砕けの三振しか思い出せない。いいところなど、確か1つもなかったはずだ。
「思い出せないか?」
「はい…すいません」
「いや、なに、ただのファールだったからはっきりと覚えてるはずはないだろうとは思ってた」
自分自身では覚えていたことを、そう言われればただの自慢にしか聞こえないが、そこはあえて空気を読んで黙っておく。
「甘寺は高宮の1球目、ストレートに手が出なかった。その様子から、甘寺はまずあの打席ではストレート3球で終わると思っていた。ただ茫然と、タイミングなんかまったく掴めない感じで立っていたからな」
そこで一旦息をついて、
「だが違った」
そう言った相川の目はやけにはっきりと開いていた。まるでグラウンドにはライバルのような存在が立っているように、その目の先には甘寺がいた。
「甘寺は2球目でそのストレートをカットした。分かるか?1球目ではまったく手の出せないように見えたストレートをたった1球でカットしたんだ」
「それ、ただ見送っただけじゃないんですか?」
「顔や肩の動きを観察してた限り、そうは見えなかった」
「…相変わらず高い洞察力で」
「そうでもない」
ともかくだ、と開いた間を繋いで、
「甘寺の高い順応能力は異常といっていいほどだ。うちの辻井でも甘寺のようにはいかない。せいぜい2,3球見てからだろう。下手すれば1打席を捨てて見ていかないと手が出ない球もある」
その言葉を聞いて、佐々木ははっと気づいた。
「まさか相川さん、この打席で甘寺が打つとでも」
「思ってては悪いか?」
視線はいまだ甘寺から離さず、相川は半ば言葉を強調したようにそう言った。
「たぶん、あんな選手はそうはいないだろうな。あれで通算打率4割を超す打撃能力や通産本塁打30本を超す長打力でもあったらでも間違いなくドラフトで上位指名は受けてただろうに」
残念そうに、そしてなぜか苦笑しながら相川はそう言った。
もしかして、甘寺を将星に誘ったことがあったんだろうか。そんな疑問は、高く頭に響くような打球音と、まるでこれから嵐でも呼ぶ儀式を行いますというような歓声によってかき消された。
追い込まれてからでもバントをしてくる可能性があると警戒していたのが仇となった。やや前進守備の内野、その1つの一二塁間を裂くようにして打球はライト前へ転がった。
外野は、いやライトの嶋倉は特に極端な前進守備のため、さすがに池原がホームへ帰ることは難しい。守備位置に加え強肩というスペックの嶋倉からこの状況でホームは踏めないだろうと、池原はコーチャーのスピードを抑えろという判断に同意する。
牽制でかなり大きめのオーバーランでもしようと思ったのでスピードは落とさないが、それでも最初からホームを踏む気はない。元々の足が速かったためか、3塁ベースに着くのは速かった。余裕があるので打球を確認すると、丁度打球を嶋倉が掴んだとこだった。
これで無死でランナーが1塁3塁。これで打者が薙多となるのだから、これほど大チャンスというのはそうそうない。余裕を持ってオーバーランしようと、池原がスピードを落としたその時、
「とりゃあぁっ!!」
かわいい掛け声とともにライトの嶋倉が大きく躍動し、捕球したばかりのボールを自慢の強肩をフルに使って投じた。
バックホームか、とそう思い、どちらにしろそこまでいく気はなかった池原は挟まれた時を考慮してオーバーランの幅を小さくした。どちらにしろ、無死1塁3塁の状況は変わらない。
『池原のいた角度から打球を見た場合』なら、そう思えた。
しかし、それを別の角度から見てる人ならすぐ分かった。
嶋倉はホームではなく1塁へ送球していることを。
甘寺は間に合ってくれと思い、頭から滑り込んだ。駆け抜けた方が速いという論理的思考が回るより速く、体がそう動いた。手がベースに着いた瞬間、コーチャーが勢いよく「セーフだ!!」と叫んだ。よほど際どいタイミングだったのだろう。
甘寺は顔をあげ審判の見た。その審判は一瞬の躊躇い、そしてその躊躇いの次にはまるで迷いがなかったかのように、勢いよく手をあげてアウトを宣告した。
――――まさかのライトゴロ。
甘寺はがっくりとこうべを垂れた。チャンスを潰したのではなく、チャンスを潰されただけに悔しい。
これで一死3塁。まだチャンスには違いない、それでも自分が出てればもっとチャンスは広がっていた。そして勝利に近付いていた。このチームはチャンスを潰してそれを引きずってしまうチームではない。チャンスを作ったことによって流れを引き寄せることができるチームだ。それだけに、今のプレーは大きい。
甘寺はゆっくりと立ち上がり、歩きながらユニフォームについた砂を払った。
その背中にある8の番号は、どこか薄く、そして悲しそうだった。
歓声を背に受けて薙多は打席に入る。
ピンチの後にチャンスありの格言通りの一死3塁、高宮を相手にして試合中でこんなチャンスを作るかは滅多にないはず。ここで打てば試合を一気に引き寄せ、打てなくてもここでチャンスを作ったということで黎学の流れを作ることができた。
それでも、欲は出さないといけない。
(さぁて、どこに打つとすっかね…)
ぐっとバットを立ててグラウンドを見渡す。
よほど甘いコースにでも来ないくらい高宮からホームランを打つことは難しい。長打もそれに然り。そしてライトに打つことはできるだけ避けたい。となると、流し打ちでの短打狙いか。
薙多はインコースぎりぎりの球威ある球でも持ち前の技術とリストの力でレフトの頭を越すぐらいはできる。
相手が高宮となると自分の思い通りになることはないと思うが、それでも狙えるなら、そしてできると自信がある。
バットを肩越しに斜めに構え、不規則に揺らす。これが薙多のフォームだ。そのゆったりとしたスタンスから振り出されるスイングは、どんなストレートでもはじき返し、どんな変化球にもスイングスピードを落とさずに対応できる。
そのスイングを我が物にできたからこそ、天才の名に相応しい自信を手に入れることができた。
俺に打てない投手はいない。
高宮がプレートを跨いで投球に入った。薙多はぐっと目を凝らし、集中する。視神経が焼き切れるような感覚が頭を襲う。それぐらい集中しないと、高宮を相手にはできないのだ。
打者を焦らすようなゆったりとした独特のフォームから、その遅さに反するように腕は鋭くしなられた。
薙多はガッと勢いよく踏み込んで、初球から果敢に打ちにいこうとした。自身しかわからないタイミングで、高宮の投じた球を、持った獲物で狩りにいく。
しかし、振り出されたスイングはボールを捉えることができなかった。振り切った後だから分かる、今のは自分の中でもベストに近いスイングだった。捉えていれば確実にヒットだったと。
タイミングも、球種の判断も間違いはなかったはず。ならなぜ―――――、
そう思った直後、薙多は違和感に襲われた。
今のスイングは完璧にボールを捉えたはずだった。コースは外角、球種はストレート。確かに速かったがそれでも自分の眼はバットがそれを捉えてたように映っていた。
スイングスピードもストレートの球速に負けていない、それに力負けもしないフルスイングだった。そして当初の狙い通りレフトへ流し打って長打を打つことができたはずだった。
ならば、なぜそれができなかった。
薙多は先の一瞬のシーンを思い返す。見えたボール、振り出されたバット、測られた隙のないタイミング、そしてその3つは交錯するようにして合わさるはずだった。
そして次の瞬間を思い出し、気づいた。
ボールはまるで急にぽっきりと折れるようにして曲がった。その軌道はシュート。だがシュートというにはあまりにも球速が速く、キレがありすぎる。まるでストレートがホームベース直前で偶然ナチュラルに変化したと思ってもおかしくないぐらいにだ。だが高宮のストレートに限ってそんなことはありえない。
だとしたら、意図的に今のシュートを投げたことになる。
薙多はそこではっとしてバックスクリーンの球速提示を見た。
デジタル表記で間違いが起こるはずのないそこには、『153km』のデジタル文字があった。



